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* 量子論・相対論9:反粒子の存在を予言(1930年:ディラック)

Q72: 真空とは一体どのような空間なのだろう? 次から選べ、①何もない空っぽな空間、②何かで満たされた充満空間

 この不思議な真空状態は「ディラックの海」と呼ばれる。この状態を発見し、あらゆる粒子はそれと正反対の性質を持つ「反粒子」をその海の中に持ち、それに強い刺激を与えることで反粒子が実空間に飛び出してくる。という全く信じられない理論的予言をした若者が、英の天才ディラック(Paul Adrien Maurice Dirac、英、1902~1984年)であった。まず彼の生い立ちから見てみよう。ディラックは独のハイゼンベルク(量子・相対論8話)誕生の1年後、英のブリストルでスイス人の父と英国人の母のもと、3人兄妹の次男として生まれた。高校を繰り上げ進級し、ブリストル大で電気工学を学び19歳で卒業する。その後さらに2年間同大で数学を学ぶ。21歳(1923年)からケンブリッジ大に移り理論物理を学んだが、1925年ハイゼンベルクの量子論の講演を聞き、量子論の基礎研究をスタートさせた。「ハイゼンベルク方程式の物理量の非可換性」「シュレディンガー方程式の波動関数の対称性」など画期的な成果を早々にあげ博士号を取得。1926年(24才)からボーアのもとに留学して、両方の方程式の統一化の研究を行い、有名なδ関数(デルタ関数:変数の幅を持たない超関数で従来の関数の概念を超えたインパルス的な「関数」)を導入し(1927年)連続性と離散性を類比しながら分析できるようにした。

 同じ理論物理研究者と言っても、ディラックは研究スタイルがボーアとは全く違っていた。ボーアがグループでの対話と討論の中でワイワイガヤガヤと研究を進めるのに対し、ディラックは寡黙で一人静かに思考を重ねるタイプでシュレディンガーに似ていた(量子・相対論7話参)。ある日、人の居ない教室でじっとしているディラックに、何をしているのか?と尋ねると、「人は一生懸命考えなくてはならない」とただ答えたという事である。そして考察の次に彼がすべきことは静かに書くことであった。これがディラックの研究活動の全てである。又、彼の仕事の中身は全く抽象的論理であり、その中の数学的形式美を尊んだ。具体的な実態モデルには興味がなく、いやむしろ嫌ったと言ってもよい。シュレディンガーが波動方程式の波動の意味を考察しているとき「模型や対象のイメージに捉われすぎてはいけない」と言う示唆をこの偉大な先輩に与えている。

 さてディラックの反粒子の発見だが、これはそのような物質を見つける事を想定して発見したわけではない。彼の目的は、相対論と量子論の数学的融合にあった。1928年、26歳でシュレディンガー方程式を相対論に調和するように書き換えることを目指してそれに成功する。歴史的な「ディラック方程式」が生み出されたのだが、ここで予期せぬことが2つ起きた。一つは電子のスピン(電子の自転的な特性)の性質がその方程式から自然に導かれたこと。電子にはスピンと呼ばれる量子数が内在することが実験より分かっていたのだが、実はその理論的よりどころがまだ不明であった。それがこのディラック方程式で明確になったのである。つまりスピンとは量子論の相対論的効果により生じるものと解明された。そしてもう一つが負のエネルギーを持つ奇妙な電子が「数学的な解」として現れてしまう、という不思議さであった。これは当初、単なる数学上の幻想(虚根)と思われた。そして、そうであるが故にディラック方程式には不備があると批判すらされたのである。

 ディラックは「自分の導いた方程式が数学的にあまりに美しい為、ここに間違いがあろうはずがない。」と考えた(すごい自信!)。そして、皮肉にもディラック自身が嫌っていたモデル像による物理的解釈によってこの困難を切り抜けようとしたのである。そして、「負のエネルギーの電子とは、実電子と逆のプラス電荷、同じ質量を持つ電子の反粒子(現在、陽電子と呼ばれる)の事で、それは、これまで空っぽで何も無いと考えられていた真空中に充満して存在している」と自分の方程式からの奇想天外なモデルを提言したのである(1928年;26歳の時)。さらに、「真空は反粒子で満ちた満員電車状態(負のエネルギー状態)にあるため、通常世界(我々の住む世界)からは見えず、これまで負のエネルギー状態にアクセスする事ができなかったのだ」というまるで黄泉(よみ)のような世界を想像したのである。ここまで来ると、ディラックは気が狂ったのではないか?と普通そう思われるだろう。それに、こんなSFのようなイメージは賛同されるはずがない。ところがである、なんとこの反粒子モデルが提案から4年後の1932年、米のアンダーソン(Carl David Anderson、米、1905~1991年)らの実験により検証されてしまったのである。

 アンダーソンらは、ウィルソンの霧箱という微粒子の運動軌跡を観測する道具を用いて、宇宙から降り注ぐ宇宙線を観測していた時、その中にディラックの予言した陽電子の軌跡を見つけた。さらに彼らはγ線を原子核にぶつけてγ線を消滅させると、そこから陽電子と電子の対が人工的に生成(対生成)する事を確認する。これこそがディラックが奇想天外に想像した「真空中」から反粒子の陽電子を実空間中に取り出すことであった。「反粒子に満ちた真空の存在」という空想が実証されたのである。そしてさらにその逆プロセスとして、陽電子と電子をぶつけると両者は結合して消滅し(対消滅)そこにγ線が発生することもわかって来た。このようにディラックの理論はアンダーソンらの実験により完璧に実証され、それは単なる数式が生んだSFではなく、科学的事実である事が分かったのである。これらの驚異的な成果によりディラックは1933年に、アンダーソンは1936年にそれぞれノーベル賞を受賞した。

宿題72:ディラックは、一人寡黙で静かに考えることが好きであり、派閥も弟子も作らなかった。有名になる事を極度に嫌い、ノーベル賞の受賞が決まった時もこれを辞退しようとした。この辞退を師の一人であるラザフォードが説得して受賞させたのだが、一体どうやって説得したのだろう?

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