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* 量子論・相対論10:強い力と中間子を予言(1935年:湯川)

Q75: 1930年代、量子論や原子モデルで科学革命をリードしていたのはヨーロッパだった。超一流の天才たちがきら星のごとく現れ、自由闊達な議論と革新的なアイディアで成果を上げ続けていた。そのような中、極東の遅れた田舎国、日本からなんと物理の新領域を切り開く「中間子論」が27歳の若者により創られた。一体、最先端のヨーロッパやアメリカでなぜこのような斬新なアイディアが生まれなかったのだろう?

スイスのシュツッケルベルク(Ernst Carl Gerlach Stueckelberg、スイス、1905~1984年)は湯川とほぼ同時期に「中間子」のアイディアに至っていたと言われる。そしてそれを、当時、理論物理の裁判官とも言われ、ボーアもハイゼンベルクも自分のアイディアの試金石として頼っていた若手のスーパー天才パウリ(Wolfgang Ernst Pauli、スイス、1900~1958年)に話したところ、「全くばかげている」と一蹴され、論文投稿を取りやめたらしい。又アメリカではやはり大御所で原爆の父と言われているオッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer、米、1904~1967年)も新粒子の考えを嫌い、湯川の中間子論文掲載を没にしたと言われている。しかし日本では中間子論文の発表が幸運にもできたのである。それは批判的な先人が居なかったからだ。ではなぜ科学的に遅れていた当時の日本で、このような最先端アイディアが生み出される環境ができていたのだろう?それは仁科 芳雄(にしな よしお、日、1890~1951年)の存在があったためである。

 仁科 芳雄は1890年、岡山に9人兄弟の4男として生まれた。幼少より優秀で、地元の6高(現、岡山大)を主席卒業し東大に入学、電気工学を修め1918年に主席卒業した。その後、東大大学院に通いながら、理化学研究所の研究生になる。1922年、32歳の時ヨーロッパ留学に出る事になった。まずラザフォード(Ernest Rutherford、ニュージーランド、1871~1937年)の居た英国ケンブリッジ大に滞在し、若きチャドウィック(Sir James Chadwick、英、1891~1974年)やカピッツア(Pyotr Leonidovich Kapitsa、ロシア、1894~1984年) などと知り合い、刺激を受ける。次に独ゲッチンゲン大に渡り、ボルン(Max Born、独、1882~1970年)の下で量子力学を学ぶ。そして1923年、当時のほとんどの天才たちが通ったデンマークのボーア(Niels Henrik David Bohr、デンマーク、1885~1962年)の下に入るのである(量子・相対論4話参)。よほど居心地が良かったのだろう、当初2年間の留学期間が、ボーアのラボで5年間にわたり研究生活を送ることになった(途中でパウリの下にも訪れている)。そして1928年、有名な「クライン=仁科の公式」を生み出す。このコペンハーゲンで吸収した先端の量子論や原子論はもちろんのこと、研究の進め方、設備・技術などを日本に持ち帰り、1929年から理研の長岡半太郎(ながおか はんたろう、日、1865~1950年)の下で、日本の量子物理や宇宙線の研究拠点作りを上げるのである。

 湯川秀樹(ゆかわ ひでき、日、1907~1981年)と朝永振一郎(ともなが しんいちろう、日、1906~1979年)はその頃、京大物理を卒業したばかりで、助手として研究を始めていた。その頃、仁科が外部講師として、新しい量子論とコペハーゲンの科学開拓精神を伝えるために京都にやってきたのである。湯川は(朝永もだが)この講義に、非常に感銘を受けた、「仁科先生その人に私は引かれ、自分の生みの父の中にさえ見出すことのできなかった慈父の姿を見出した。そして孤独で閉ざされていた私の心は先生によってほぐされていった。」と述懐している。又、朝永も「1ヶ月ほどの短い滞在ではあったが、仁科先生が我々に与えた印象は全く強烈であった。今までもやもやしていた事がとたんに明確になるという素晴らしい講義だった上、講義後の論議は忘れられないものだった。」と語っている。仁科は勢力的に出張講義を行い、優秀な学徒に研究の場を与え(湯川は阪大に、朝永は理研に移る)、そしてヨーロッパから友人である、ハイゼンベルクやディラックそしてボーアなど、当時の革新的な物理を作りこの分野をリードしている天才たちを日本に招き、彼らから直接、生まれたての科学理論を日本人に聞かせる啓蒙活動を精力的に行ったのである。これが極東の田舎国でなんとか追い付こうとしている若手研究者に大きなモチベーションを与えることになった。

 湯川は「なぜ狭い原子核の中で正電荷を持つ陽子と中性電荷の中性子が反発せず安定に結合しているのだろう?」という当時最大の謎を無謀にも解こうとしていた。当然ヨーロッパの俊英たちも同じ課題を考えていた。事実1932年、ハイゼンベルクはパウリと共に自ら進化させていた新たな量子論(場の量子論)の結果より、「粒子間に働く力(場)は、力を伝える粒子の交換により生じる。」というアイディアを出していた。例えば電子間に働くクーロン力は、光の粒子(光子)の交換により生じている。そしてこの類推から、原子核の中では「核力」が存在し、それは核内にある電子を陽子が交換(キャッチボール)することで生じるという核モデルを、既にこの超天才2人は立てていたのである。しかし、湯川は電子を交換ボールとすることに無理があることをすぐに悟った。そして電子の代わりになる適切な交換粒子を探したのである。だが既知の粒子の中に適切なものを見出す事ができなかった。

 湯川は核力が非常に短い距離でしか働かないことに注目し、その力の場の形をモデル化した(ユカワ場と呼ばれる)。そのモデルから場を作る粒子を計算すると、その質量は電子の200倍にもなることが計算により予測された。「けったいな粒子やなあ」と湯川は思ったが、それこそが新粒子(=中間子)の理論的発見の瞬間だった(1932年10月)。しかし自分の理論に確信の持てなかった湯川は、翌年の国内学会ではハイゼンベルクモデルの考察を発表するに留め、友人の朝永にのみ自分のアイディアを話した。1934年、当時の阪大学長だった八木秀次(やぎ ひでつぐ、日、1886~1976年;ヤギアンテナの発明者)に「君は何の成果も上げていないから、少しは発表をしなさい」と強いられる感じで、ようやく中間子理論の講演発表を行い、1935年に論文が掲載されたのである。そしてそれから12年後の1947年、英国のパウエル(Cecil Frank Powell、英、1903~1969年)により湯川の予測した中間子の存在が実験により確認され、1949年日本人として初めてのノーベル賞に輝く。湯川の成果は「素粒子論」という物理学の新分野を起こし、根源粒子探求の道を切り開いたとともに、多くの優れた日本人若手研究者を続いて生み出すことになったのである。

宿題75)湯川が中間子論を発表したとき、根拠が薄いと批判を浴びて落胆していた。この時支えとなったのは誰だったか?

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