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* 量子論・相対論7:量子論の基本方程式(1926年:シュレディンガー)

Q70: 光は電波という波であり、電子も電子波という波の性質があることが分かっている。では「万物は波である」と言えるだろうか?

 人類は万物の根源を知りたくてウズウズして来た。大昔、タレスは「水」であると言い、その後「土」だ「火」だと進化(?)、さらに「水、火、土、空気」の多元説になったりしたが、紀元前5C頃、賢いデモクリトスが「アトム(原子)」という壊せない基本粒子である、と鋭い指摘をする(道具・力学5話参)。この原子説は1804年ドルトンにより、化学反応の性質から正しいとお墨付きを得られた(熱・化学8話参)。しかしその原子も原子核とその周辺の電子に分離できることが20世紀に入って分かり、さらに原子核の内部にもいろいろと根源粒子が存在する事が知られるようになって来た(量子・相対論4話参)。さて困った、どこまで行っても、玉葱の皮むきのようでその根源は果てしなく、なかなかその本質が見えてこない。極限的な素の素は一体何なのだろう?

 東洋哲学(インド哲学、ヒンドゥー経)では、宇宙の根源はブラフマン「梵」と解く。ブラフマンとはモノというより、モノを作り上げる「力」のような形を持たない存在である。一方でその宇宙に自己たる「我」が存在し、その個の根源をアートマンとする。これは魂のような存在で、死んでも各母体を移り代わりながら宿り続けるとされている。そして全体的には、そのブラフマンとアートマンは実は同一である、という梵我一如説をとなえる。この考えは仏教にも影響を及ぼし、ブラフマンに人格を与え、「梵天」としたり、梵をうまく体に吸引融合することで宇宙のエネルギー(気)を得るヨガや瞑想に、実践的影響を与えている。シュレディンガー(Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger、墺、1887~1961年)はこの東洋的同一化の教理に大いなる共鳴をして「波動方程式」を作ったと言う。おそらく粒子をアートマン、波動をブラフマンとみなしたのではないか。

 量子力学には、このように西洋科学を超越した東洋思想的な特徴が見られる。例えば、万物は粒子でもあり波でもあるという「二面性」、測定を原理的に正確には行えないという「不確定性」、確率的にしか未来が決められないという「非決定論理」、観測者が見ることで現象が変化(=実在)するという「観測の理論」など、それまでの一神教的かつ決定論的な西洋世界観を大きくはみ出してしまった。そしてそれらが科学的真実であるということが実験によって確かめられるたびに、科学者は驚き、困惑し、その事実を受け入れるために苦悩したのである。あの、すばらしく柔軟な考えを持ち量子論の誕生を導いた超天才アインシュタインですら「神はサイコロなど振らない!」と言って暴かれて来る事実を認めなかったのである。それは自然を理解するための西洋視点の限界を嘆いたセリフだったのかもしれない。しかし、実際は神もサイコロを振っていたのだ。

 シュレディンガーは1887年、植物学者の父と化学者家系の母の下、ウィーンに生まれた。11歳で中高等学校に入り、19歳からはウィーン大で物理を学び、1910年に学位を取る(23歳)。1911年から同大で助手を務めたが、1914年から第一次世界大戦のため4年間従軍。1918年ウィーン大の講師として復帰するが、その後、イエナ、シュツットガルト、ブレスラウ、チューリッヒと大学を転々とする。この間、一般相対論や色彩論、比熱の統計理論などを研究した。統計物理の奇才ボルツマン(Ludwig Eduard Boltzmann、墺、1844~1906年)や哲学者ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer、独、1788~1860年)に心酔。1925年(38歳)の時、アインシュタインの論文に記されたド・ブロイの波動説と運命的出会いをする。これにインスピレーションを受け、物質波の振る舞いをハミルトンの解析力学の手法に基づき方程式化させた歴史的な論文「固有値問題としての量子化」4部作を1926年前半に発表。この方程式は水素原子のスペクトルを定量的に見事に説明し、その正しさが証明される。それまでの、ボーア(Niels Henrik David Bohr、デンマーク、1885~1962年)のやや技巧的で仮説的なボーアモデル(量子・相対論4話参)に対し、それは数学的に明瞭な論理性と汎用性(より広い領域への拡張性)持っていたのである。この論文を読んだボーアはたまげてしまった。

 原子の世界の特徴は「飛び飛び(離散的)」に現象が生じることであって、人の目で感じられる程度の大きさの世界(=古典的世界)の特徴である量的な「連続性」と相容れないところが理解のなじみにくさを醸し出している。プランクの量子仮説もアインシュタインの光量子仮説もボーアの原子モデルも、必ずどこかで、この「量子的な離散制限」を仮定することで、原子的な現象を説明できたのだが、シュレディンガーの方程式は「波動性」のみの考え方でこの離散的現象を見事に説明できている。いったい「量子制限」はどこに隠れてしまったのか?ボーアはその点が理解できず、自分より2歳若いシュレディンガーをデンマークに呼び、得意の「対話」によってこの謎を解く事にした。

 ボーアの思考法は、できるだけ単純な質問を投げかけ「対話」を重ねるやり方であった。これはまさにソクラテスの「問答法」と言える。又、ボーアは社交的で人柄も良かったため、デンマークという小国で研究を進めたにも関わらず、当時の多くの若手研究者をコペンハーゲンに呼び寄せ、自由闊達な研究グループを作り世界をリードしていたのである。そこにはあっと驚くクラマース、ハイゼンベルク、パウリ、ディラック、そして日本からは仁科芳雄(帰国後、日本の量子物理学を育て、湯川、朝永のノーベル賞につながる指導者)などそうそうたる若手天才達がボーアを慕って集まっていたのだ。一方のシュレディンガーはどちらかと言うと孤独な数学的・哲学的思考を得意とした非社交的な研究者であった。しかし、有名なボーアに呼ばれてしまったのである、彼は忍耐を持って、この対話に丁寧に対応することにした。

 数日間に及ぶボーアとの執拗な(?)対話の中でシュレディンガーは体調を崩し入院してしまったのだ。しかしそれでも病院にまでやって来て、ボーアの質問(追求?)は続いた。そして、興味深いことにボーアの理解が進むにつれ、シュレディンガーの考えとの差は開いて行った。シュレディンガーにとっての「波動性」とは実在するもの(電子が有する電子波というド・ブロイ波のこと)であったが、ボーアの理解はシュレディンガー方程式の「波動」は「抽象的で実在しない数学上の波モデル」という考えに落ち着いて行ったのである。そしてその考えは後に、独の物理の様々な分野を操る天才ボルン(Max Born、独、1882~1970年;孫に歌手のオリヴィア・ニュートン・ジョンがいる!)によって、粒子の「存在確率」を示す抽象的な「確率波」であることが証明された(アインシュタインが噛みついた「サイコロ遊び」のこと)。なんと驚くことにボーアの解釈が勝利したのである。「波」を根拠に方程式を導いたシュレディンガーの信じた実在する波ではなかった、と現在では考えられている(大学でもそう教えられている)。しかし、シュレディンガーは最後まで自分の方程式は実在する波を表したものだ、と信じていたようだ。(ところで、シュレディンガー方程式は境界条件の下で、離散的な解を持つ事が示され、ボーアが不思議がった量子制限が内在されている事が分かった。又、その「波」が実在するか実在しないかにかかわらず、その方程式は正しい結果を出すので、科学の世界では基本方程式としてニュートンやアインシュタインの式に匹敵する重要性を持ち続けている。)

宿題70:シュレディンガーは天才にありがちな奇人であった。少児性愛者であり反ナチズムであり東洋思想かぶれであった。彼はオックスフォード大から教授職を招聘されながらも実はある理由で教授になれなかったのだが、それはいったいなぜだろう?

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