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* 道具・力学12:近代科学の方法(1583年:ガリレオ)‥‥科学の幕開け

Q12: 「重いものほど速く落ちる」と1900年間も信じられていた説に疑いを持ったガリレオは、ある実験を行うことで、この説が誤りであることを証明した。さてガリレオの行った「部屋の中でもできる実験」とはどのようなものだったか?

 結果は、見事に同時着地を示し、重いものも軽いものも同じ速さで落ちることを証明した。「重いものほど速く落ちる」ということは感覚的には正しいと感じられる。事実、石と羽を落とせば、石のほうが早く落ちることは誰でも知っている。しかしガリレオ(Galileo Galilei、伊、1564~1642年)はここに疑問を持った。なぜ疑問を持ちえたのだろう?それはおそらく若い時に発見した「振り子の等時性」によるものと思われる。振り子の等時性とは、紐でつるされた重り(振り子)がゆれる時、その周期(ひと揺れの時間)がゆれの大きさや重りの重さにもよらず一定であるという法則である。17歳のころ教会の様々なランプの揺れが等しいことから、ガリレオが発見した(作り話という説もある)。そしてその後の実験により振り子の周期が紐の長さの平方根に比例することをもガリレオは見出している。この「重さによらず振り子の周期は一定」という発見がガリレオに強烈な印象を与え、この落下の法則の発見(28歳の頃)につながったのであろう。

 疑うことは科学の始まりの一つである。アリストテレスの提唱以来、疑うことすらされなかった落下説をガリレオは疑う。これは真理を見極めたいという強い心の要求であり、科学的センスと言える。青年期の発見体験をもとに、この説に疑いを持ったガリレオは、さらに見事な推論でこの説の誤りを確信したのである。ガリレオはこう考えた、「もし重いものが軽いものより速く落ちるなら、重いものと軽いものを結びつけより重くした複合物体はさらに速く落ちるはずだ」。しかしどう考えても、石と羽を結びつけたものが元の石より早く落ちるはずがない!よってこの説は誤っている。そう確信したガリレオはさらにこれを実験で確かめようとする、そこで考えついたのが上記の斜面の実験であった。

 「実験」という概念は、古代にアルキメデスが空理空論を退けるために導入した方法である(本分野:第6話参)。彼を尊敬していたガリレオは「あらゆる考え(説)は実験により実証されなければならない」と考え、定量的に精度や再現性を高めた実験と数学的な考察により仮説を検証するという「科学的方法論」を主張し、実践したのである。そしてこの方法によりいかに権威ある説であっても、実験により否定されれば、それは誤りである、という立場を取った。ここに哲学や宗教から自立した「科学」という方法が西洋で誕生したのである(1600年)。当時日本は関が原の戦いを行っていた。

 近代科学の誕生という意味で、ガリレオに影響を与えた同時代の天才がイギリスにもいた。地球が大きな磁石であることを発見したウィリアム・ギルバート(William Gilbert、英、1544~1603年)である。彼はエリザベス女王の担当医師(侍医)として活躍した英才であるが、本業の他に磁気や電気現象に強い関心を持ち、20年間に渡る多くの観察と「実験」により1600年に著書「磁気論;(原題)磁石、磁性体、そして大磁石たる地球について、多くの論述と実験とで論証された新哲学」を表す。この本でギルバートは徹底して実験を重視し、それまでの古い言い伝えや迷信を廃した。さらに「電気;エレクトリック」という用語を作り、当時区別されていなかった磁気現象と電気現象を区別し、客観的に事実を観察することの重要性を主張したのである。ルネッサンス時代における新たな「科学的考え方」の先陣を切った天才のひとりであるギルバートの主張はガリレオに強い衝撃を与え、実験を重視し数学的考察でこれを解釈するという近代科学の方法論を開くことになった。このような時代背景を考えると、天才といえども決して一人で全てを築き上げるわけではなく、先人天才の流れを受け取りながら発展させてゆくことが多い事がわかる。

 ところで、ガリレオは落下法則以外にも多くの発見を行い、それに関する技術的発明も多かった。例えば次のようなものが上げられる。

・振り子の等時性⇒振り子時計の発明(設計だけで製作はしなかった)
・空気の熱膨張⇒空気温度計
・地動説の実証⇒ガリレオ式望遠鏡(オランダ式望遠鏡の改良)

 ガリレオ以前の天体観測は全て目視でなされていた。ガリレオはオランダで望遠鏡が発明されたことを噂で聞くと、すぐに自分でも作り上げ、それを天空に向けた。そして、木星の周りを回っている衛星(ガリレオ衛星)や金星の満ち欠けの発見、太陽黒点の観察などを行った。そしてこれらの観察結果が天動説を否定し地動説を支持する証拠となってゆくのである。(この望遠鏡により、月の表面のクレーターや天の川が微小な星の集合体であることなども発見している)

 ところでガリレオの生い立ちであるが、1564年にイタリアのピサで音楽家であり呉服商の父ヴィンチェンツォと母ジュリアの間に長男として生まれ、弟4人妹2人の大家族であった。敬虔なカトリック教徒として育ち、17歳でピサ大学に入り医学を専攻するが、20歳のときに医学をやめ退学してしまう(学費が無くなったためとも言われている)。その後、家庭教師をしながら、アルキメデスの手法による比重の求め方の論文『小天秤』を書き、これが認められピサ大の講師の職を得る。その後パドヴァ大学に移り、ここで数学を教えながら多くの力学上の発見を行った。

 ガリレオは鋭い洞察力や真理を見抜く嗅覚を持っていた。が、しかし意外と間違いも犯している上、自分の間違いをなかなか修正しようとしない頑固な面も持ち合わせていた。例えばケプラーの「楕円運動の法則」が観測事実であったにも関わらず、楕円運動などをするわけがないと批判し、すべての天体は完全な円運動をしているはずだと主張した。この革新的天才にしてもまだアリストテレス的な考えに縛られていたのである。又、ガリレオの晩年はあまり幸福とはいえなかった。有名なローマ教会との宗教裁判上の戦いがあったためだ。当時のローマカトリック教会は、聖書の教義に反すると考えられることを禁じ、それに違反するものに厳しい処罰を与えた。例えば地動説を強く支持し、太陽系も広大な宇宙の一部に過ぎず、地球以外にも知的生命が存在する可能性があるという革新的な考えをを主張したジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno、伊、1548~1600年)は、危険思想者とみなされ、8年間の投獄された末1600年にローマの広場で生きたまま火あぶりの刑にされた。このような「見せしめ」もあったため、地動説を支持したガリレオも無益に教会と争うことは避けていたが、ついに1615年、異端の告発を受ける。しかし幸運にも当時の裁判官ベラルミーノがガリレオの熱心な崇拝者であったため、無罪とされ、他人を刺激する行動を慎む忠告に留まったのである(第一回宗教裁判、1616年)。

 その後、隠遁生活を送るものの、自分の科学思想を一般の人にわかりやすく教えたい気持ちが抑えきれず、有名な「天文対話」を出版(1631年)する。これが教会の逆鱗に触れ、第2回宗教裁判(1636年)が行われることになった。そして、不幸にもこのときすでに朋友であり擁護者だったベラルミーノはすでに亡くなっており、有罪判決が下される。ただしなんとか死罪は免れ無期幽閉生活を強いられた。しかしガリレオはここでも自分の考えを一般社会へ示す意欲を抑えきれず、傑作「新科学対話」を執筆する。この原稿はうまくイタリアからプロテスタント国に持ち出され、1638年密かにオランダで出版された。しかしこのときガリレオはすでに盲目になっていた(望遠鏡で太陽を見たことが遠因らしい)。尚、新科学対話はガリレオの口述を弟子のトリチェリ(Evangelista Torricelli、伊、1608~1647年、真空技術の発明者)が筆記したと言われている。その後振り子時計の発明などを行ったガリレオは1642年に弟子たちに見守られながら、78歳で激動の一生を終えるのである。そしてこの翼年、ガリレオの意志を継ぐように、科学史上最大の巨星ニュートンがイギリスで誕生する。ところで、ローマ法王が地動説に対する宗教裁判の非を認め、ガリレオへの有罪判定に謝罪したのはなんと359年後の1992年のことであった。科学的真理に対して宗教の判断は時間がかかるということである。例えば、進化論は宗教的にはまだ認められていない。

宿題12:ガリレオの時代にはまだ時計がなかったが、ガリレオは振り子の等時性を見付けたとき、時間をどうやって測ったのだろう?

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