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* 道具・力学17:万有引力(1666年:ニュートン)

Q17: ニュートンが万有引力を発見した有名な「りんごの木」は今、日本にある?

 ニュートン(Sir Isaac Newton 、英、1642~1727年)のりんごの木の話は有名で、伝説に過ぎないとも言われているが、かなり高い確率で真実だと思われる。りんごが落ちたくらいで、いくら天才といえども万有引力が発想できるだろうか?という疑問はもっともだが、時代背景を考えながら、ニュートンの思考をたどってみると、その信憑性の高さが納得できるだろう。

 そもそも万有引力とは何か?それは質量(重さ)を持つ物質同士に働く引き合う力のことで、あなたと私やパチンコ玉の間にも働いている。もしこの力が強いなら、2つのパチンコ玉を机の上に少し離して置くと、お互いに引かれあって、磁石のようにくっついてしまうのだが、それほど強い力ではない。もっとも磁力のように強い力だと、人間同士くっつきあい、困ってしまうことになる(喜ばしいこともある?)。ところが、パチンコ玉を空中で離すと、地球に引っ張られ地面にくっついてしまう。つまり「落ちる」のである。これは地球の質量が巨大なため、万有引力が大きくなり、その力が「落ちる」という現象で体感できるためだ。ニュートンはこの力は次のような式で書けることを示した。

 F(万有引力)= G×m1・m2/r^2

ここで係数Gは重力定数(6.67×10-11 N・m^2・kg^-2)。万有引力の特徴は、2つの質量m1,m2の物質が距離rだけ離れて置かれた場合、それらにはお互いを結ぶ直線方向に引力が働き、その大きさは質量の積に比例し、距離の2乗に反比例するということである。ちなみに、体重50kgの人同士が1mの距離にいる場合の引力は約0.00002(g重)と、とても弱い力でありくっつき合うことは無い(残念?)。又、磁力のような反発力はない。

 さてニュートンが生まれた時代は、ケプラーが天体の運行に関する3法則(楕円軌道、面積速度一定、平均公転半径が周期の1.5乗に比例:道具・力学14項参照)や、ガリレオの運動に関する慣性の法則などが現われ、地動説や地球球形説など新しい考えが起こりつつある科学萌芽の時代であった。さらに、惑星の運行のためには力が必要だが、それは磁力ではないか?などという議論も始まっていた。ニュートンはケンブリッジ大学に進みこれら天体を中心とした力学に強い興味を覚え、新しい知識をどんどん吸収し、次のような考えや仮説を心に刻んで行ったのである。

・地球を含め惑星は球体で自転と太陽を周る公転をしている(コペルニクス)
・天空は地上と同様な法則が成り立っている(ガリレオ)
・惑星に働く力は距離の2乗に反比例して弱まるはずだ(当時信じられていた一般仮説)
・重さや力の原因は空間を満たすエーテルのシャワーや渦動の作用(デカルト)
・2つの物体の衝突において運動量が保存する(デカルト)

 このような先人の知識や説を並べてみると、ニュートンは決して単独で全ての発想に至ったのではなく、これら先輩の法則や考えを収集、整理し数学的に論理構成化して行くことで、矛盾の無い力学体系を作り上げていった、ということが分かる。実際ニュートンの創造のスタイルは「まず先人の著作を熟読し多くの注釈をメモする」⇒「多彩な考えを整理・統一化する」という意外と堅実な手法を取っているのである。

 さて、そこで万有引力へのひらめきだが、ニュートン自身の語りを記録したと言われる友人であり医者だったウィリアム・ストゥークリ (William Stukeley, 英1687-1765年)の「アイザック・ニュートン生涯の記憶」によると、「万有引力の概念が心にうかんだのは、瞑想的な気分で座り、庭のりんごが落ちるのを見ていた時だった。なぜりんごはいつも地面に垂直に落ちるのだろう?なぜ横や上には行かず、確実に地球の中心に向かうのだろうか?という事を考えた。」と記されている。多少の脚色もあるだろうが、ここで注目したいのは、単にりんごが落ちたことに触発されたのではなく、りんごの落ち方「鉛直に落ち、常に地球の中心に向かう」というポイントである。1665年から1667年にかけ大学はペストの流行で閉鎖され、ニュートンは自分の課題を持ち故郷に帰り、郷里の農場にあったりんごの木を窓越しに眺めながら天体運行の鍵を握る「力」について思考を巡らせていた。「地球は丸く、りんごはいつも地球の中心に向かって落ちるが、なぜだろう?」「重力が届く高さの制限が無く、月までこの力が届いているとしたら月の運動はどう影響を受け軌道は保てるのだろうか?」などと考え計算に没頭した。そして当時の仮説「距離の2乗反比例則を満たす重力」が届くなら月の軌道は維持され観測と合うことを証明、さらにこの2乗反比例則を惑星にまで展開して計算すると、ケプラーの法則「楕円軌道」と「周期の1.5乗比例則」をも証明できることを示したのである。これによって、地上でも宇宙空間でも普遍的にしかも遠隔的に作用する力があることを確信、これを「万有引力( Universal Gravitation)」と名付けた。単なるりんごの落下も、問題意識を強く持った心に、より深い気付きのきっかけとヒントを与えたのである。

 ところでニュートンの天才性はいつ頃作られたのだろう?驚くべきことにニュートンは大学に入るまで正式に数学の勉強をしていない。それまで通った高校はグラマースクールで、主として語学教育の学校だった。ニュートンはさほど語学や文学には興味を持てなかったらしく、高校時代の成績が飛びぬけてよかったわけでもない。しかしここの校長がニュートンの才能を見抜くのである。そして母親の反対(父親はニュートン誕生前に既に死亡)にもかかわらず、ケンブリッジ大への進学を授業料免除の特待生として強く推薦する。そして大学で新進気鋭の数学者アイザック・バロー(Isaac Barrow、英、 1630~1677年)に出会うことになる。彼は数学をニュートンに教えただけなく、その才能に驚嘆し、ニュートンの研究成果の発表に骨を折り、ニュートンが26歳になった時、自からの教授職を彼に譲り、常に彼を支援し続けたのだ。

 ところでニュートンは1666年に若干23歳で発見した万有引力の理論を正式に発表したのはなんと、それから20年後の1687年の著作「プリンキピア(自然哲学の数学的原理)」によってである。これほど発表を遅らせたのはなぜだろう?科学者なら、自分の成果を発表すること、しかも誰よりも早く発表することは勲章である。しかしガリレオの時代はその発表が教会からの異端批判を受け、死刑になることもあったため、17世紀において事はそう簡単ではなかった。さらにニュートンの場合、さらに2つの理由があった。一つは成果への独占欲が非常に強く他者に(特にライバルたちに)成果を教えたくなかったこと。2つめは、他者からの批判に耐えるのが苦痛だったこと。つまりニュートンは矛盾する性格上の2要素、独占(権威)欲と匿名欲をアンバランスに有していたのである。

 1つ目の独占欲の強さは半端ではなく、先取権に異常に執着した。公表しないと先取性が主張できないし、かといって公表すると他者に知られその後の研究を先行される危険性がある。ニュートンはうじうじと悩んだ、そこで一計を案ずる、暗号でライバルに手紙を送りつけるのである。実際、数学者ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz、独、1646~1716年)はニュートンの微積分の成果を暗号手紙で受け取っている。しかし強度の暗号文であったため何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。一方ニュートンはこれで安心した。ライプニッツが微積分の成果を発表しても自分の(暗号の)手紙を読み盗んだと主張すればよいのである。さらに成果をとりあえず匿名で発表しておくことにした、後であの匿名者は実は私だと言えば先取権を主張できるからである。なんという執着的で異常な性格であろう。

 他者からの批判に対しても異常な反応をニュートンは見せた。まずは最大の犬猿の仲であったフック(Robert Hooke、英、1635~1703年)との論争である。フックはバネの伸びに関する「フックの法則」で有名であるが、ボイルの弟子で、非常に多才であった。例えばニュートンの光の理論に対し、「そんなことは既に私が考えた事、それに粒子説は間違っている」とフックは強烈な批判を投げかける。これが基となりさらに批判は重力の理論にも及ぶこととなった。ニュートンの対抗もすさまじく、なんとこの論争は光と重力合わせて10年間ほど続き、両者とも疲労困憊してしまう。とりわけフックは精神的ダメージを受け、その後しばらくして死んでしまった。次にニュートンの餌食になったのが、先ほどのライプニッツである。歴史上有名な微積分の発見に関する先取権争いであった。この論争も10年越しの長きにわたり、お互い国をあげての論争にまで発展。疲れきったライプニッツはこれがもとで死んでしまう。その後もニュートンは相手を変え論争を続け、常に対抗者の死で論争を終結させ、自分はますます元気になったのである(悪魔のような男?)。孤独で暗く虚弱体質といわれていたニュートンだが、論争により闘争的かつ頑健になり、85歳まで長寿を全うしたのである(英:1643~1727)。

 ところでこのプリンキピア、幾何学におけるユークリッド原論のように、自然科学を数学的、論理的に記述することで、新たな科学の視点と考え方を示し、その後の科学思想のあり方の規範となる画期的な著作となった。特にハレー彗星の発見で有名なハレー(Edmond Halley、英、1656~1742年)はニュートンの成果を高く評価し、プリンキピアの著述と出版を精神的かつ金銭的に強く支援した。ハレーなくしてプリンキピアは世に出なかったのである。そのハレーは、最初にプリンキピアの原稿を読んだとき「あまりの素晴らしさに、気が狂いそうだ」と感想を漏らしている。又、プリンキピアを読んだフランスの数学者ロピタル(Guillaume Francois Antoine, Marquis de l'Hôpital、仏、1661~1704年)は「ニュートンというのは、いったい我々と同じ姿をしている人間なのか?」とその才能に驚嘆したとの事である。

宿題17: ニュートンというと、数学を駆使したガチガチの理論家というイメージがあるが、実はかなり器用で工作好きな面があった。実際、彼が発明し現在でもまだ有効に使われている装置(道具)があるが、それはいったい何か?

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