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* 電気・磁気8:電波の存在予言(1865年:マクスウェル)

Q44: TVや携帯電話で使われている「電波」は目に見えることができないが、この見えないものを一体どうやって発見したのであろうか?

 天才にもいろいろなタイプがあるが、このくらいなら、ひょっとしたら自分にもできるかもしれないと感じさせ、親しみのわく天才と、全く歯が立たないと脱帽するしかない天才がいる。マクスェル(James Clerk Maxwell、英、1831~1879年)は後者の代表であった。彼は1831年スコットランドのエジンバラに生まれる。父親は弁護士であり広大な土地を持つ資産家。小学校には通わず母親から直接学び、8歳で母親がガンで亡くなってからは科学好きの父親が実験をしながら教育をしていた。10歳で中学に入学すると、すぐ才能を示し始める、「卵形曲線のピンと糸による作図法」は14歳の時の発案、その後「魚眼レンズの原理」も発見する。16歳でエジンバラ大に入学し、「複屈折」と「弾性体の歪み」を研究、色彩論では「光の3原色と色の3原色の違い」を解明するなど、早熟の天才ぶりを次から次へと現した。19歳でケンブリッジ大に移りストークス(Sir George Gabriel Stokes、アイルランド、1819~1903年)やトムソン(William Thomson,Kelvin OM、英、1824~1907年)と知り合い23歳で卒業(全くもって天才集団が集っていた時代である)。翌年から電波の発見につながる「磁気力線の研究」を始めたのである。

 磁気力線の研究を進めるにあたり、マクスウェルはまず尊敬する先人ファラデー(電気・磁気7話参)の実験結果を徹底して調べあげた。そしてファラデーが電磁誘導(空間中の磁気変化が離れた場所の電気を生み出す現象)の説明のため発案した「磁力線のモデル」を数学的に表すことに挑んだのである(1856年論文:「ファラデーの力線について」)。この論文はファラデー本人にも送られ、これを基に25歳のマクスウェルと65歳のファラデーの間で文通による交友が5年間にわたり続けられた。その後、彼は磁気力線と流体の流れのアナロジーに目を付け、ケンブリッジ大で知り合ったストークスやトムソンの流体力学の成果を参考にしながら、この研究を9年かけて発展させる。そこではそれまで実験的に得られていた電磁気における4つの法則、つまりファラデーの「②電磁誘導の法則」、電流の流れる導線近傍に生じる磁力についての「④アンペールの法則」、電荷が生じさせる電気力線、NS極磁石の生じさせる磁気力線の状態「①電気、③磁気に関するガウスの法則」が得意の数学を用いて方程式化された「マクスウェル方程式」を作り上げたのである(ただし現在のような洗練された4式の形に仕上げたのは独学の奇才ヘヴィサイド(Oliver Heaviside、英、1850~1925年)による)。

*(参考)洗練された現在の「マクスウェル方程式」(数式番号は文中の法則番号に対応)
  div D = ρ    ‥① (電気のガウス法則:電場Dは電荷ρにより生じる)
  rot E = -∂B/∂t ‥② (電磁誘導の法則:磁場Bが変化すると電場Eが生じる)
  div B = 0     ‥③ (磁気のガウス法則:磁場Bは距離の2乗に反比例して生じるが磁荷は無い)
  rot H = J + ∂D/∂t ‥④(アンペールの法則:電流Jや電場Dの変化で磁場Hが生じる)

 マクスウェルはさらにこれらの連立方程式を、1つの方程式に「融合」させていくことで驚くべきことを発見する。そこに現れたのは電気と磁気に関する「波の伝播方程式」であった。しかもその方程式の中に奇妙な定数(C)が含まれていて、その値を計算すると当時測定が行われていた光速の値(約30万km/時)にほぼ一致したのである。この数学的結果から、マクスウェルは2つの事に気付く。一つは「空間を伝わる電気と磁気の相互の波動(電磁波)が自然界にはあるようだ」、二つ目は「光はその電磁波の一つであるらしい」という予測である。これらの理論予測は、後に実験により見事証明されるのである(電気・磁気17話参)。まさにガリレオが言ったように「自然というのは数学の言葉で書かれていた」のだ(道具・力学12話参)。

 実は、マクスウェルの天才芸はこれだけで終わらない。彼は「土星の環が何からできているか?」という懸賞問題にチャレンジし、「それは剛体や液体では不安定になるため有り得ず、微粒子の集合体である」と推論、懸賞最高位のアダムス賞を獲得する。そしてこの分析がきっかけとなり、気体の分子運動についての統計的な研究を始めたのである(1858年)。現在「マクスウェル分布」として有名な気体分子の速度分布が、温度によって決められる「ガウス分布」と等価な事をそこで証明した。又、気体の熱的性質が、気体分子の衝突モデルから統計的に説明できることを示し、経験則として知られていた「ボイル・シャルルの法則」を数学的に証明する。さらにこれらの研究をもとに著作「熱の理論」(1871年)を書き上げたのである。この本は後にエントロピーの法則を分子論から解明したボルツマン(Ludwig Eduard Boltzmann、墺、1844~1906年)に多大な影響を与え、「統計力学」という分野が生まれるもとになった。

 ところでマクスウェルはクラウジウス(Rudolf Julius Emmanuel Clausius、墺、1822~1888年)のエントロピー増大の議論に疑問を持ち、奇妙な思考実験「マクスウェルの悪魔」を考えだした(1871)ことでも有名である。この架空の悪魔は仕切り弁のついた容器の中に潜んでいて、速い分子と遅い分子の交通整理を行い、容器の片側に速い分子を他方に遅い分子を分離する。悪魔は分子に対して選別するだけで特別な仕事や影響は与えないで、温度の高低差を作りあげてしまうのである。つまり原理的にエントロピーを低減させることができることになる。さて、この匠な批判には大天才トムソンも困ってしまい「悪魔」と名付ける。この悪魔の存在が完全に否定されたのはようやく1929年シラード(Leo Szilard、ハンガリー、1898~1964年)により、悪魔が速度の情報を得るためにはエネルギーの消費とエントロピーの増大を必要とし、結局その悪魔は焼け死んでしまうことを明らかにしてからである。しかし結果的にこの悪魔のモデルはその先の情報理論の種を蒔く事になった。やはり天才の考えだした「独創的な失敗」モデルであったと言える。

宿題44: 1871年にマクスウェルはケンブリッジ大の初代「実験物理学教授」に就任する。これほどの数学理論の天才がなぜ「実験」分野の先生になったのだろう?

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