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* 電気・磁気7:電磁誘導(1831年:ファラデー)

Q38:もしファラデーの時代にノーベル賞があったら、彼は少なくとも5つの賞を取ったと考えらる。小学校しか出ず、数学ができなかった彼はいったいどういった「手法」で数多くの画期的な発見・発明を行ったのだろう?

 マイケル・ファラデー(Michael Faraday、英、1791~1867年)はおそらく人類至上最多(質も含め)の発見を行った科学者であり、化学から物理の広範囲な分野にわたり多くの「ファラデーの法則」を生み出した。代表的なものを時代順に列挙すると、

・	錆びない鉄(合金)の製法発見(1818~24)⇒共同研究者はカミソリを実用化する
○	ベンゼンなど各種有機化合物の発見(1820~26)⇒ケクレのベンゼン環モデルへ発展
・	塩素(Cl2)の液化(=気体の液化)に成功し低温科学の道を切り開く(1823)
・	高屈折率ガラスの製法改良(1825~31)⇒後の光学ファラデー効果の発見につながる
○	電磁誘導の発見(1831)⇒変圧器(コイルとトランス)、発電機の発明
・	磁石の磁力線モデルの提案⇒場の概念の示唆
○	電気分解の法則発見(1833)⇒電気分解電気量の単位が「ファラデー」になる
・	静電気、生物電気、ボルタの電気、電磁誘導の電気が全て同じ「電気」であることを証明(1833)
・	減圧気体の放電現象で陰極近くに生じる「ファラデー暗部」を発見(1835)
・	誘電体をはさむ蓄電器(コンデンサ)の提案⇒コンデンサの単位「ファラッド(F)」に
○	光の偏向面が磁気で回転する「ファラデー効果」の発見(1845)
・	反磁性物質の詳細な研究、「反磁性」の名付け親(1845)
○	光が電気と磁気振動からなる(光線振動説)の提案(1846)⇒マクスェルの電磁波論
・	自然界の力は統一的な起源を持つ、という仮説⇒電気力と重力の関係実証に失敗(1849)
・	金のコロイド粒子による光散乱の発見(1857)⇒のちのチンダル現象発見に
・	ナトリウムD線の磁気による影響の検証に失敗⇒のちのゼーマン効果へ

(○は私が勝手に選んだノーベル賞候補)

 よくもまあこれだけの発見を成したものである。一部実験に失敗しているものもあるが、これは当時の実験技術が未熟だったためであり、後世の人が同じ実験をやることで成功して名を冠しているのだから、その本質を見抜く洞察力は神がかっていると言えるだろう。

ファラデーの生涯については多くの優れた伝記があり、あまりに有名なので、ポイントだけを記しておく。ファラデーは1791年(モーツアルト死去の年)にロンドン近郊に貧乏な鍛冶屋の第3子(なんと10人兄弟)として生まれた。ここで重要なポイントは電気と化学の勃興期という時代背景と学問の中心ロンドンという環境である。もし時と空間を違えてファラデーが産み落とされたなら、ここまでの発見は無かったに違いない。教育は小学校のみだが、ここで読み書きを学ぶ。そして13歳から製本屋の見習いになったが、これが良かった。製本を行いながら「大英百科事典」を読む機会を得たのである。これで化学と電気に強い興味を持つ、しかも製本屋の主人が親切な人で、彼の独学と趣味の実験を応援してくれた。

 ノートを書き出したのもこの頃、そしてついに運命の日がやってくる。製本屋に来た客の一人が王立研究所の市民科学講座のチケットをこの感心な青年に譲ってくれた。講師はカリウム(K)ナトリウム(Na)など新元素を6種も発見した新進気鋭の科学者デイヴィー(Sir Humphry Davy、英、1778~1829年、当時34歳)であった。若い頃に一流の人やモノに出会うことほど大切なことはない。ファラデーは時代の寵児デイヴィーから直接講義を聴き、興奮し、彼の講演を全てノートにまとめて製本し、そしてなんとデイヴィー本人に送ったのである。ファラデーは返事を心待ちに待った、そしてこの天才科学者から返事が届く「近々会いたい」。天にも昇るような気分であった。この出会いがきっかけとなり、3ヶ月後ファラデーはデイヴィーの実験助手に採用されることになる(1813年、22歳)。彼の科学の第1歩、いやそんなものではない、人類にとっての近代科学の扉はこのように開かれたのである。

 ところで最大の発見「電磁誘導現象」だが、これはどんな発想で見つかったのだろう?電流が流れるとその周りに磁界が生じることは既に知られていた(電気・磁気5話:エルステッドの項参照)。電気から磁気が発生するなら、自然の対称性によって、磁気から電気も発生するのではないか?とそう考える人は多かった。もちろんファラデーも同じように考え、まずノートに「磁気の電気への変換」とテーマ名を書いく(1822年)。彼の研究スタイルはノートを書くことからいつも始まる。そして、人にわかりやすく教えるように、それまでの歴史的な研究事例と結果を整理していくのである、そして実験アイディアを出し、装置を組み立て自分自身で操作して行ってみる。彼の電磁誘導発見に至る流れは次のようなものであった、

①銅線のコイルの中に磁石を置くが電気は発生せず(1824)
  *この年アラゴ(仏1786-1853)が銅板底の羅針盤の針は回転しにくいことを発見している
②電流の流れる電線のそばに銅線を置くが電気は発生せず(1825)
③再度、磁石のそばの電線に電気を起こそうとするが失敗(1828)
④鉄のリングに互いに接触しない2つのコイルを巻き(現在のトランスの原型)、一方のコイルに電流を流すが
 他方のコイルに電流は発生せず。
 しかしなぜか電流の流し始めと電流を切る一瞬の間だけ、検流計の針がごくわずか振れることに気づく(1831)

 このかすかな振れをファラデーの直感は見逃さなかった。しかも電流を入れる時と切る時の振れは逆方向である。これはアラゴの円盤と関係があるのではないか?とノートに記す(素晴らしいセンスの良さ!)。電池を増やし、コイルを変え、様々な条件で再試するがとても微弱な効果ではっきりしない。ある時、磁石をコイルのそばで動かしてみた、するとコイルが反応して電流を発生、そう、磁気を「変化」させた時に電気が発生することをついに発見したのである。ファラデーがノートに研究の目的を書いてから、なんと9年後の事であった(この間、他の研究も並行して進めている)。さらに歴史の妙味であるが、この年にファラデーの実験結果を、後に数学的理論に仕上げるマクスウェル(James Clerk Maxwell、英、1831~1879年)が生まれている。(ファラデーは数学ができなかった、学校に行ってないためその訓練をされていなかった。がしかしそれが良かったのかもしれない。実験の天才になれたのである)

 ファラデーの生き様から、創造性に対するヒントを得ることができる。それは彼が克明に実験や思考の流れをノートに書き綴って来たことであり、弟子のチンダル(John Tyndall、英、1820~1893年、チンダル現象の研究で有名)が、敬愛するこの師の活動を伝記として出版したおかげである。ファラデーの性格は「強大な力強さと完璧な柔軟性が調和していた」とのこと。つまり、自分の信じる研究テーマの重要性とその本質(自然の根本原理)に対する強い思い込みを持ち、繰り返し実験にチャレンジするが、予想外の結果が出てもそれを鋭敏かつ寛容に受け入れる視野の広さを持ち合わせていたのである。だからこそ「失敗」を繰り返しながら9年に渡ってあきらめず追求ができたのだろう。又、1つのテーマに集中しながらも、並行に複数のテーマを抱え、それぞれに集中できる精神的タフさを持っていた。この集中力とタフさは、前向きな性格に加え、頑健な肉体と敬虔な宗教心から来ていた。とりわけファラデーのゆるぎない信仰心は心の安定感と科学の見方に対する宗教的な統一観を与え、様々な発見に有効に寄与したのだ。さらに、忘れてはならないのは愛妻サラの存在である。サラはファラデーの好む世俗から遊離した生活を甘んじて受け入れ、生涯に渡って、精神的に夫を支え続けた。「私は偉大な精神の休む枕でした」と後年幸せそうに語っている。子供は居なかったが、そのおしどり夫婦ぶりは夙に有名であった。

 ファラデーの創造性のもう一つのエネルギーは、一般大衆向けに非常にわかり易くかつワクワクさせる講義を何年にも渡って行うことに費やされた。彼自身この教育的啓蒙活動に非常に意欲を持ち続け、どれほど研究が忙しくとも、楽しくかつ最新の内容を高いレベルを維持しながら分かりやすく話すことに心を砕いた。それはまさに自分自身が青少年の時に受けた知的喜びを、次の世代へ返すべくライフワークとして捉えていたためである。教育と研究を共に1流にこなした人であった。ところで、ファラデーの生活は実に質素であった。王立研究所内の簡素な部屋に住みつづけ、ほぼ朝9時から夜11時頃まで実験室で過ごした。世間からの一切の名誉や報奨金を受け取らず、実験と教育に専念できることこそが喜びであった。とは言え奇人キャベンディッシュ(熱・化学4話参)とは異なり、人と交わり、論文発表や数々の講演をこなし、音楽や芝居も楽しんでいたようである。(トランジスタ技術、2014年11月号に掲載)

宿題38: 1857年ファラデー66歳のとき、イギリス科学界最高の栄誉「王立協会会長」に推挙されたが、ファラデーはこれを断った。断った理由は何だったか?

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