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* 熱・化学18:遺伝の法則(1865年:メンデル)

Q43: メンデルはエンドウ豆を使った遺伝の実験のために8年以上を費やしたが、最初の数年間は実験準備のための期間であった。いったい何を準備していたのだろう?

 メンデル(Gregor Johann Mendel、墺、1822~1884年)以前の19世紀半ばにおいて、既に遺伝の存在は認識されていた。子が親に似るとか、動植物の品種改良が盛んに行われていたからである。しかしその原理はまだよく分かってなかった。ダーウィンも進化論を提言したものの、自然選択説を証拠づける遺伝モデルの不明確さは気になっていたようだ。当時信じられていた遺伝メカニズムは、生物個体に遺伝を司る「液体」が流れており、親からの液体同士が混ざりあうことで、特徴が引き継がれるというものだった。しかしこれだと赤の花と白の花を掛け合わせた場合、中間のピンクの花が出てもよさそうだが、ほとんどは赤の花となる。さらにこの赤の花同士を掛け合わせるとなんと次の孫世代に白が現れることがある。赤の花の中に白を伝承する因子が潜在的に残っている為だが、液体説ではこれらの現象が説明できなかった。

 さて、メンデルは1822 年オーストリア(現チェコ領土)に農家の長男として誕生。家は貧乏だったが、学校長の説得で中高等学校に進学を果たす。さらに18歳でオロモウツ大学に入り、哲学を学び始める。しかし生活のため2年間で大学を辞め21歳の時修道士になるが、修道院で数学、植物学などを学びながら、高校で代用教員などをして勉強を進めた。修道院長の進めで正規教師の資格を取ろうとするが失敗。ところが、この試験でメンデルの才能を見抜いた試験管がウィーン大学への進学を推薦してくれる。人生何が幸いするか分からないものだ。29歳でウィーン大に入ったメンデルはドップラー(Johann Christian Doppler、墺、1803~1853年;ドップラー効果の発見者)から数学と物理を、ウンガー(Franz Joseph Andreas Nicolaus Unger、墺、1800~1870年)から植物学や動物学を学ぶ(どちらかと言うと物理数学系が好きだったらしい)。卒業後、31歳でブリュンの修道院に戻り、修道士と高校教師で生活をしながら有名なエンドウ豆の実験を始めたのである。この実験は修道院の狭い裏庭で8年以上続けられた。

 メンデルがエンドウを育てる実験を始めるに至った理由はいくつかある。まず、彼の生い立ちが農園であり、両親から植物の栽培、交配、接木などの技術を幼い頃より教えられていた。つまり親しみのある実験技能を有していたことが第1の理由である。次に斬新な遺伝モデルをウィーン大学時代に思いついたことが上げられる。彼は物理を好んでいたが、当時の物理学は物質の性質を原子や分子の振る舞いで考えようとする原子論が生まれていた(熱・化学8話参)。この考えに刺激を受け、遺伝現象も何か基本となる粒子的なものの結合で理解できるのではないかと考え、現在の遺伝子につながるアイディアを暖めたのである。これを実証するために、大学卒業後すぐに実験準備に取り掛かった。エンドウを選んだ理由は、対立する形態(種の形やさやの色など)が区別しやすいこと、成長に時間があまりかからないこと、人工受粉が花房の包みこむような形状のため保護されやすいことなどがあったようだ。

 ここでメンデルのユニークな点は自分の遺伝モデルを次のような記号と数式で表すことを提案した点にある。

・親はある形態に関してペア(2個1対)の遺伝因子(粒子)を持ち、AAかAaかaaの3パターンのどれかになる。
 ここでAは優性因子、aは劣性因子。
・子には親の片側の因子が掛け合わされペアとなる。ここでA×aの交配となった時、優性因子A形質のみが現れる。
 (Aが赤花、aが白花の場合、Aaの子は赤花になる)
・親が純系AAとaaの場合、子は全てAaの雑種となる。又、孫の世代は次の式のように;
   (A+a)^2=AA+2Aa+aa つまり、優性発現(AAとAa)が3体、劣勢発現(aa)が1体の割合で現れる。

 当時の生物学者は数学と物理が苦手であったため、メンデルのこの粒子説と数学表現を用いた報告(1865)は、多少の興味を持たれたものの残念ながら注目を集められず、その内容は葬り去られた。これには、名も無い修道僧の発表という学者社会からの冷たい目線も少なからずあった。その後もしばらく実験を続けたが、修道院長に昇進し責任が重く多忙になったことより、交配実験はやめてしまう(なんと、その後気象観測や太陽黒点の観測を始めている!変な修道院長であったことだろう)。そして1884年、メンデルはその画期的な発見を認められないまま61年の生涯を終えたのである。メンデルの成果は、単に遺伝の法則を見出したと言う事だけでなく、それまでの博物学的植物学に対し仮説と実験による検証という科学的方法を持ち込み、世界観の転換を図ったということで実に画期的だった。

「やがて私の時代が来る」というメンデルの予言どおり、1900年頃(メンデルの発表後35年)彼の遺伝モデルの正当性が3人の研究者(ド・フリース、コレンス、チェルマック)によってほぼ同時に「再発見」されることになる。そして、彼らはメンデルの先見的な論文を知り驚き、紳士的にこれを高く評価した。こうしてようやくその偉業が認められ、遺伝の法則は「メンデルの法則」と呼ばれるようになった。天国のメンデルもさぞ嬉しかったことだろう。

宿題43:つつじの花を見ていたM君は、奇妙な花があることに気づいた。同じ一つの枝から赤と白の花が咲き分かれているものや、一つの赤い花びらに白の部分が混在しているものなど、メンデルの優性の遺伝法則に反するような花がある、一体これはなぜ生じたのだろう?

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