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* 熱・化学2:蒸気機関(1712:ニューコメン、1736:ワット)

Q19: 最初の蒸気機関のアイディアは蒸気が膨らむ力を利用し、動力を得ようとするものだった。しかしこれは実用化されずに失敗してしまう。なぜ失敗したのだろう?

 原理的なアイディアだけでは実用化が困難という典型例である。蒸気の力で動力を得ようとする考えは古代ギリシャの数学者ヘロン( Hero of Alexandria、ギリシア、紀元10年頃〜70年頃)まで遡る。三角形の面積公式で有名なヘロンは、回転できる球形のボイラーに2つの蒸気ノズルを付け、そこからの蒸気の噴出により回転させるという面白いアイディアを残しているが、実用にはならなかった。近代になってからも蒸気をシリンダーに閉じ込めて、そこで生じる圧力により運動を得ようとする考えがいくつか出されたが、高圧の蒸気を安全に閉じ込める技術が未熟だったため、多くの爆発事故が発生し数万人以上もの死傷者が出た。このため蒸気圧力釜はその危険性から実用化が見送られたのである。

 そのような時代背景の中、1695年にボイル(Robert Boyle,英 1627-1691年:ボイルの法則の発見者)の弟子で圧力鍋を発明したドニ・パパン(Denis Papin、仏、1647~1712年頃)は、実用的な蒸気機関の原点とも言える実験装置を作り上げる。高圧の蒸気圧利用をやめ、逆転の発想によって「蒸気が液化し収縮するときの減圧を利用し」大気圧の力によりピストンを動かそうとするものであった。この発想の転換は画期的であり、大気圧以下の力で吸引しかしないこの方式は爆発を起こす危険性もなく、安全性に優れていた。しかしドニ・パパンは実験機を成功させたものの、その実用化には至らず、貧困の中で死んでしまう。このアイディアを改良発展させ実用機を作ったのが、鉱山向けの金物商を営なんでいたニューコメン(Thomas Newcomen 、英、1664~1729年)であった。

 ニューコメンは、当時イギリスで困っていた炭鉱の排水の問題に注目した。炭鉱を掘れば掘るほど水が出て坑道が水没してしまうのである、このため常時排水をしなければならない。当時は馬を使ってポンプでくみ出していたようだが、馬の飼育費がバカにならない。そこで馬の代わりに蒸気機関を使うことを試みた。ドニ・パパンの実験機などのことを知り、これを改良、初めての実用蒸気機関(揚水機)を完成させる(1712年)。ニューコメンは、ボイラーとシリンダーを分け、ボイラーで作った蒸気を弁でシリンダーに取り込み、ピストンを押し上げた。その後シリンダー内部に弁により水を噴出し冷却液化すると共に、外部の大気圧によりピストンを吸引し下げる。この時に連動したポンプで水をくみ上げるようにしたのである。この装置は実用化に成功、ニューコメンは100機以上の装置を製造し供給し、70年間に渡って使われるロングヒットを記録する。

 ニューコメンの蒸気機関は初めての実用機として長年使われたものの、効率が悪いという欠点があった。なんとせっかく掘り出した石炭の4割ほどがこの蒸気機関を動かすために消費されたのである(それでも馬の飼育費よりはましだった)。そこに登場するのがワット(James Watt、英、1736~1819年)である、その名は現在電力の単位(ワット;W)にもなっている。ワットもニューコメンと同様、学歴がなかった。つらい修業で機械工となり21歳の時なんとかグラスゴー大学の機械調整技師の職を得る。ここで熱機関の原理を学ぶことができたのが幸いであった。そして大学からの求めでニューコメンの蒸気機関の修理を行うことになる。持ち前の器用さでうまく修理できたものの、その効率の悪さに物足りなさを感じたワットはなんとか効率改善をしようと頭をひねったのである。

 ワットの工夫は主として次の2点にあった。まず、ニューコメンがシリンダー本体を冷却していたことをやめて、水蒸気を別の凝結室(復水器)に取り出し、ここで冷却させることにしたのである。これにより、シリンダーは常に高温に保つことができ注入する高温蒸気を冷たいシリンダーで浪費させずに済むため効率を改善できた。さらにピストンの往復運動を回転運動に変える機構を追加し、力を利用しやすくしたのである。これらの改善により、ワットの蒸気機関(1769年)はニューコメンのものより、効率が4~5倍になった。つまり同じ仕事をさせるのに石炭の量が1/4以下で済むようになったのだ。さらにその後も改良を続け、効率の更なる向上を追及した(1782年頃)。ただし安全性への固執から、ワットも最後まで膨脹型高圧蒸気機関にまではふみこめないでいた。

 ワットの蒸気機関は、1790年にはニューコメンのものを一掃し広く使われるようになる。石炭さえあればどこでも動力が得られるため、馬や多くの人力が不要になりそれまでの家内工業を経済的に追いやってしまった。多くの職人の仕事は奪われたが、工業が発展し大量生産が始まり、都市が発展した。いわゆる産業革命が引き起こされたのである。さらに蒸気機関は、紡績機や運送機などへ応用展開される。1785年にカートライト(Edmund Cartwright、英、1743~1823年)の力織機、1807年にフルトン(Robert Fulton、米、1765~1815年)の蒸気船、1804年のトレビシック(Richard Trevithick、英、1771~1833年)の蒸気機関車、そしてスチーブンソン父子(George Stephenson、英、1781~1848年)によるその実用化などで、社会は様変わりをしてしまう事になったのである。

 ところで、ワットと交流の深かった人物に経済学者アダム・スミス(Adam Smith、英 1723-1790年)がいる。彼は学歴は無いがユニークな技術の才のあるワットをグラスゴー大学に技師として招いた。「スミスは大学にいる間、ワットの仕事場へ好んで出入りした。ワットの話が斬新で創意に富み、周囲の人々をひきつけたからである。」(J.レー著、アダム・スミス伝より)。彼らの交流が蒸気機関をいち早く英国にもたらし、産業革命を進める事になった。その後、ワットは工場経営者であるマシュー・ボールトンと組み蒸気機関のベンチャー会社(ボールトン・アンド・ワット社、1794年)を設立する。これは歴史上初の大学ベンチャーだったといえるだろう。

宿題19: 現在蒸気機関はレトロな蒸気機関車以外にほとんど見る事はなくなった。何が、蒸気機関を消滅させたのだろう?

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