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* 電子・IT・新技術17:CD(1982年:ソニー&フィリップス)

Q98:オーディオのデジタル化は、それまでのアナログオーディオのある装置の欠点を改善しようという試みから始まった、その装置とは一体何だったか?

1965年、NHKの音響研究部長だった中島平太郎(なかじま へいたろう、日、1921~2017年)は、オーディオの将来技術の方向性を考えていた。1958年にマイクの改良(C-37/38後のソニーマイク)、1960年にスピーカーの改良(2S305後の三菱スピーカー)を果たし、日本のオーディオ技術を世界的な水準にまで高める実績を挙げていた。また、その中島マイクは米国でブルーノー・ワルター(コロンビア交響楽団)のオーケストラ録音に採用されワルターの歴史的ステレオ録音を生み出していたのである。しかし、まだテープレコーダの特性が充分ではなかった。特に歪み率が他のオーディオシステムに比べ一桁以上悪く、いろいろ改良を試すものの、大幅には改良されない。「これは改良では無理で、抜本的な革新が必要だ」と中島は確信していた。そんな時、部下の一人、林(林謙二氏)がぶらっとやって来て、「デジタルで録音してはどうだろう?」と通信技術で始まっていたデジタル革命の流れを語ったのである。「それだ!」と中島は直観した。(技術の始まりは分析ではなく直観であることが多い!)

 ところが、デジタル録音の構想を上部に話しても「そんな巨額で大規模なコンピュータ技術のようなものをオーディオに導入できるわけがない」と大反対される。結局、上には黙って「もぐり研究」を林と始める事にした。しかし、あまりお金は使えないので大学(早大)と組んで開発を進めた。翌年1966年、試作機が完成する、さっそく試聴。すさまじい雑音の中からかすかに「実にクリアで歯切れの良い」音が聞こえた。この時、体が震えるような感動を覚えたと言う。この感動がその後の辛い時、常に励みになったようだ。

 1971年、中島はソニーの井深大(いぶか まさる、日、1908~1997年)に引き抜かれ、ソニー音響技術研究所の所長になる。よし、ここでデジタルオーディオを実用化しよう!と夢を語ったのだが、トップの井深自身に猛反対される。実は井深はデジタル技術が大嫌いだったのだ。しかしデジタルオーディオへの夢は燃え上がるばかり、そこで当時4chステレオ技術の迷走により、社内で不満を感じていたエンジニア数名を誘いこみ、トップに内緒でソニーでも「もぐり研究」を始めた。そして1976年、ソニーが当時力を入れて開発していたVTR技術とデジタルもぐり研究で開発したD/A変換器(音響信号のデジタル化⇔アナログ復調を行う装置)を組み合わせることで、世界初の民生用デジタルテープレコーダPCM1を完成させた。NHKでの林の夢のささやきから11年後のことであった。

 当時1970年半ばには、記録技術は磁気テープから光ディスク記録への進化が始まっていた。中島たちも次は光ディスクだろうと考えソニーの光ディスク開発部隊にデジタルオーディオ開発の話を持ちかけるが、これはオーディオ用ではないとはねつけられてしまう。しかし、それにも負けずにディスクへのシフトを試みた。ところが、テープにくらべあまりに記録エラーが多く、テープで使えたデジタル技術はそのままでは光ディスクに使えない。PCM1を発売した事で、既に「もぐり研究者」から正規の開発組織になっていたメンバーは、この困難にさらに燃える集団となり光ディスク用の「新記録技術と誤り訂正技術」を開発する(1978年)。これらが後のCDに生かされることになった。しかし当時のソニーは30cm直径(LPサイズ)の長時間大型光ディスクを想定していた。

 1979年3月、和蘭のフィリップス社から直径11.5cmのCD(Compact Disc)原案が日本の各社に提案される。ソニーはこの小型で商品性の高い提案に強烈なショックを受け、フィリップスとの共同開発をすぐに始めることにした。デジタル技術に強いソニーとディスク技術に強いフィリップスという協力関係であったが、東京(品川)と和蘭(Eindhoven)を何度も行き来し激論を飛ばしながら、さながら技術闘争のようであったらしい。さらに国内他社からの規格に対する批判や対立、音楽ソフト制作会社からの反目と厳しい要求など、政治的調整にもあけくれた。「1980年の1年間は20年ほどの仕事が凝縮されていた」と中島は述懐している。しかし最も厳しい批判者は社内だった。デジタルなど先行きは無い、現行の良好なアナログオーディオビジネスに悪影響を与える、莫大な開発費を使ってけしからん等、様々な内部批判が殺到したのである。井深は目をつぶってくれていたものの、本音としてはCDには反対であった。

 万難を乗り越え、1982年10月ついにソニーから世界初のCDプレーヤ(CDP-101)とCD音楽ディスクが発売される。価格は168000円、ディスクのサイズはソニー案の「ベートーベンの第九交響曲が入る74分」の直径12cmに修正され5mmほど大きくなっていた。鳴り物入りで発売されたCDだったが、当初一部のオーディオマニアが購入したもののその後は全く売れなかった。そして2年後の1984年にソニーが携帯型のCDプレーヤーD50(49800円)を売り出してからようやく普及が始まったのである。当時はWalkManでカセットテープを聴くことが音楽スタイルであり、その可能性が携帯型CDセットで見え始めたことも普及のモチベーションになった。音の良さという「質」の要素はそれほど一般消費者にアピールしなかったのである、ましてや技術革新そのものには、大衆は関心を示さないという一つの例であり、普及のポイントはあくまでも使い勝手の良さとアプリの魅力であった。

宿題98:井深はCDが発売された時、中島たちの労をねぎらい、「君の執念には脱帽した」と賞賛する。そしてもう一言付け加えた、デジタル嫌いの井深はなんとささやいたか?

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