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* 電子・IT・新技術14:月着陸(1969年:アポロ計画)

Q93:宇宙飛行士になるために最も必要な能力は何か?

 頑健で体力があり頭脳明晰、さらにリーダシップ力と協調性をバランス良く持ち合わせ、他人から好かれる人。これだけでも大変な逸材だが、それらは当たり前で、何より強靭な精神力(楽天性)が必要とされる宇宙飛行士。世界一難しい就職先と言われる所以である。そんな最高難度のセレクションを通過し、人類初の月着陸を果たしたのが、アームストロング(Neil Alden Armstrong、米、1930~2012年)、オルドリン( Buzz Aldrin[1]、米、1930年~ )、コリンズ(Michael Collins、米、1930年~ )の3人であった。ところで、アポロ計画とはそもそも何だったのだろう?そして人類に何を残したのだろう?まずこれを整理しておきたい。

 1957年10月、ソ連は世界初の地球周回・無人人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功する。さらに1959年1月ソ連は月探査機「ルナ1号」の打ち上げにも成功し、続く「ルナ2号」を月面に送りこんだ。これらの成功に脅威を感じたのが米国である。ロケットとはすなわちミサイルの事であり、軍事技術において米国はソ連からはるかに遅れを取ったことが世界中に明らかにされたのである。米国は焦った、すぐさま対抗してバンガードTV3を打ち上げるが失敗(1957)。世界のリーダになりたい米国の敗北感は強まり、宇宙開発競争へのモチベーションを逆に高めることになった。翌年1958年、NASA(アメリカ航空宇宙局)を設立し、有人宇宙飛行を目指す「マーキュリー計画」を始動させた。がしかし、またも1961年4月にソ連はガガーリンの有人地球周回飛行をいち早く達成させ、先を越されてしまう。当初、宇宙開発にさほど積極的態度を示していなかったケネディー大統領もついに1961年5月、斬新な宇宙開発を宣言したのである。「今後10年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」この壮大な目標の下、アポロ計画が開始された。

 当時のアメリカのロケット技術は、失敗続きで貧弱であった。NASA関係者ですら、アポロ計画は実現不可能と考えていた。そこに現れた救世主がロケット技術の天才フォン・ブラウン(Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun、独、1912~1977年)である。ブラウンは1912年ドイツ東部のヴィルジッツ(現ポーランド)に貴族の家系に生まれる。父は農業大臣で男爵であった。幼い頃母親が与えた望遠鏡が彼をとりこにし、宇宙への感心を生涯持ち続けることになる。なお意外な側面であるが8歳の頃、作曲家ヒンデミット (Paul Hindemith、独、1895~1963年)からピアノを習った事もあるらしい。さて1923年、ロケット工学者オーベルト(Hermann Oberth、独、1894~1989年)が「惑星空間へのロケット」を書くと、これを手に入れ、不得意だった物理と数学の勉強に力を注ぎ、1930年ベルリン工科大に入学、さらにドイツ宇宙旅行協会にも所属しオーベルトのロケットエンジン実験に参加することになる。大学卒業後はフンボルト大の大学院に入り、陸軍のロケット技術者ドンベルガー(Walter Robert Dornberger、独、1895~1980年)の下でロケット開発を行って博士号を得る。ここにロケットに情熱を燃やす技能も高い青年が誕生した。

 第二次世界大戦中、ブラウンはナチの下、V-2と呼ばれるロケット兵器の開発にドンベルガーと共に取り組んだ。ところがブラウンの関心は戦争より、地球周回や月へのロケット就航に向いていた。この事を知ったゲシュタポは彼を国家反逆罪で逮捕する。彼なしではドイツのロケット(実はミサイル)開発は出来ないとドンベルガーは説得したが、ゲシュタポは応じなかった。結局彼を釈放する骨を折ってくれたのは、なんとヒトラー(Adolf Hitler、墺⇒独、1889~1945年)自身であった。しかし天は動く、1945年5月、敗戦を確信したブラウンは500人近いロケット技師の仲間を誘い偽造した書類で、ナチを逃れ米国に亡命したのである。ロケット技術者の重要性を認識していた米国は彼らを保護し、陸軍基地ボートブリスでロケット開発に従事させた。

 ブラウンは米国でも、「宇宙ステーション」の概念や、ウォルト・ディズニーの映画で宇宙への夢を語り続け、公衆の宇宙への興味を喚起させると共に、1958年アメリカ初の人工衛星エクスプローラー1号の打ち上げを成功させる。失敗続きだった米国の宇宙開発はようやくここでスタートラインに立てたのだ。1960年、ブラウンはNASAのマーシャル宇宙飛行センターの初代所長に就任し、それから10年間アポロで使われる「サターンロケット」の開発を指揮することになった。そして1969年7月21日、彼らの開発したアポロ11号の飛行士たちが月面に降り立ち、彼の子供の頃からの月旅行への夢がようやくここでかなったのである。

 ロケット技術者と共に、優れた宇宙飛行士なくしては月着陸は成功しない。11号船長アームストロングの優れた宇宙飛行士の資質はどのように培われたのだろう。彼は1930年オハイオ州に州の公務員の父の下、長男として生まれる。なんと家族は15回も父の転勤に付き合ったようだ。ボーイ・スカウトで活躍し、最高の表彰をされる。パデュー大で航空工学を、南カリフォルニア大で宇宙工学の修士号を得る。1949年海軍に入り海軍飛行士に、2年後朝鮮戦争で実戦を経験。1956年空軍に移り、さらに多くの飛行経験をつんだ。1962年NASAは宇宙飛行士選抜を行う、これに申し込んだアームストロングは見事合格。訓練を重ね、1965年ジェミニ8号の船長に任命されランデブーとドッキングを行う。様々な困難と失敗を経験するが、結果は常にOKだった。1967年ジェミニ計画のベテラン飛行士17名からアポロ計画の飛行士が選択される事になり、1968年、アームストロングが最初に月面に立つ11号船長に任命されたのである、その理由は「彼が最もエゴが少ない」という事であった。

宿題93:11号の月着陸の際、コンピュータが警報を2度鳴らした、「無視して続行せよ」との指令がNASAから出る。そこでアームストロングは操縦を自動から手動に切り替えて対処することにした。ところが当初予定されていた着地場所がでこぼこで着陸できない、燃料が枯渇する中さて彼はどうしただろう?

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