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* 電子・IT・新技術11:液晶(1962年:ウィリアムス)

Q87:1888年、オーストリアの植物学者ライニッツァー(1857-1927)は、植物から抽出した物質が奇妙な性質を持つことを見つけた。温度を上げてこの物質を溶かすと、なんと2回溶けるのである。あなたなら、この現象をどう分析するか?

 この発見(?)に喜び、1889年レーマー(Otto Lehmann、独、1855~1922年) は「流れる結晶」の論文を書く。現在「液晶」と呼ばれる物質の発見であった。さて、あなたなら、ライニッツァー(Friedrich Richard Reinitzer、墺、1857~1927年)とレーマーのどちらに液晶発見者の栄光を授けるだろうか?ノーベル財団はレーマーを候補者にした。ところが与えようとしていた1922年に、なんとレーマーは死んでしまう。結局、液晶発見者にノーベル賞は与えられなかったのである、ライニッツァーはまだ生きていたにも拘らず!それにしても、先端の観測技術を持っていることは、ここに見るように大きな利点である。ライニッツァーは確かに「何か奇妙なものを見つけた」。しかしその本質は分からなかった。そしてレーマーの持つ高度な分析によって「液晶」という新素材として科学の舞台に立たせることができたのだ。公平さを重視するなら、2人の共同作業であろう。しかし、どちらか一人となると本質を見極めたレーマーが栄光を得る権利があったという事だろう。

 さて、1889年に驚きをもって発見され注目を浴びた液晶だが、当時その応用が考えられず、1960年まで70年も忘れ去られてしまう。これを再び取り上げたのは米RCA社の研究員ウィリアムス(Richard Williams)であった。彼は電極を付けたガラスセルで液晶の1種である「ネマティック液晶」(この他にらせん状分子配向のコレステリック液晶、分子が層構造を取るスメクティック液晶などが有る)を薄くはさみ、はさんだ液晶層に電圧を加えると、液晶層がストライプ模様を示したのである(ウィリアムス・ドメインの発見、1960年)。この現象に興味を持った同僚のハイルマイヤー(George Harry Heilmeier、米、1936~2014年) はさらに高い電圧を駆けることで、ディスプレイに使えるDSM(Dynamic Scattering Mode)状態が現れることを発見する。液晶がディスプレイ(LCD; Liquid Crystal Display)への応用可能性を示した瞬間であった。ここからRCAは数年間隠密にLCD開発を進め、ようやく8年後の1968年5月に「夢の壁掛けTV」を大々的に発表したのである。

 この発表に世界中が沸き立った、日本でもNHKがRCA社の研究所を取材し、ドキュメンタリー「なぞの液晶材料」を1969年1月に放送したのである。ここでRCAは重要な秘密情報を明かす大ミスをする。この放送を見たシャープの研究者はTV映像に写っていた黒板の中の液晶構造式を見逃さなかったのだ。この日本での放映により、それまでベールに包まれていた液晶材料の中身がバレてしまったのである。ところでRCAの開発成果は素晴らしいものであった、「広い室温範囲で液晶になる材料の合成」、「液晶が示す電気光学効果の分析とそのディスプレイ方式の発明」、「フラットTV用ディスプレイパネル構造とその駆動技術」など、現在使われている基本的なLCD技術を開発し特許を取得、他の研究機関を圧倒したのである。しかし、圧倒的に進んでいたはずのRCA社は、その後日本のシャープにLCDリーダの座を明け渡し、会社は倒産し売却されててしまう運命が待っていたのである。

 1919年に米国で創業され、「蓄音機に耳を傾ける犬」のマークで有名なRCAは、ステレオレコードを始めとして、ブラウン管式カラーTV、LCD技術の発明など時代の先端を常に切り開いてきた名門企業であった。しかし莫大な開発費を架けたビデオディスク事業の失敗によって倒産。1987年仏トムソン社に会社は売られてしまいその歴史に幕を下ろしたのである。さらに期待のLCDの事業化も成功しなかった。1969年時点でこれほどリードしていた技術をどうして生かせなかったのだろう?それは簡単に言えば、経営者の判断ミスと言える。「LCD-TVはまだビジネスとして早すぎる」と考えたトップ経営者は、世界をリードしていた液晶TV開発から早々に撤退をしたのである。そしてLCD-TVを最初に商品化したのは、なんと日本のエプソンであった。得意の腕時計技術に液晶を導入し、時計パネルをLCD-TVにしたスタイルの「1.2インチTVウォッチ」を1982年に発表したのである。これは英国の人気スパイ映画「007オクトパシー」で大々的に使われ、世界中に液晶TVウォッチの斬新さを知らしめる事になった。

 さて液晶に限りない可能性を感じ取ったシャープは、その14年ほど前の1968年、RCAに電卓用の液晶パネルの開発依頼をしていた。しかし「高速応答が困難」という理由でRCAから拒否される。そこで1970年、液晶表示パネルの自力開発を開始する。多くの困難があったが、最大の課題「電荷流入による液晶の劣化問題」を克服し、1973年電卓への搭載を世界初で達成する。当時、他社は腕時計用のパネル開発に集中していたため電卓に注力したシャープとは競合にはならなかった事も幸いした。そして次にシャープがめざしたのは液晶白黒TVであり、5.5インチTVを1978年に完成させる。エプソンTVウォッチ発表の4年前の事であった。しかしカラー化や大型化はまだまだ大きな壁があり、それは先のさらにもっと先の目標であった。

 80年代に入るとTVへの応用以上に、携帯PC(パソコン)にLCDを導入する機運が高まり、85年に東芝、86年にNECが液晶パネルPCを発表。シャープは86年に少し遅れてワープロに搭載、ワープロのシェアを高める。液晶パネルのカラー化は、71年にRCAから提案されたTFT(Thin Film Transistor)と75年に英のスペアが開発したアモルファスSi材料が融合したアモルファスSi-TFTによってようやく実現される事になる。ここで液晶TV技術に躍り出たのは、意外にも松下電機(現パナソニック)であった。1986年にカラーLCD-TVを発表する。シャープはまたもや1年遅れて、ようやく87年に3インチカラーLCD-TVを発表できたのである。しかし、それからのシャープの進化は早かった。翌年の88年には14インチ化を、そして94年には21インチカラーTVを開発し世界を驚かせる快進撃を続ける。そしてついに1999年、20インチカラーLCD-TVの量産化発表をしたのである。その後も、2001年から連続ヒット商品となるAQUOSシリーズを発売し、世界におけるLCD-TVのビジネスリーダとなって行った。「フラットパネル液晶TVといえばシャープ」と言う世界ブランドが確実なものとなるかに見えたのだが、しかしその栄光は長く続かなかった‥‥。発見をしたレーマーの悲劇、発明したRCA社の悲劇に続き、開発ビジネス化を成し遂げたシャープも又、経営危機に陥ってしまったのである。

宿題87:2012年時点で、シャープは韓国のサムスンやLGにビジネスで大差をつけられLCD-TV事業は大赤字に転落、会社倒産の危機を迎える。さて、その理由は一体なぜだったのだろう?

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