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* 熱・化学23:ナイロン(1936年:カロザース)

Q76: 米国デュポン社は1939年、ナイロン繊維の誕生を発表した。この時のうたい文句は「○○より強く、□□のように細い、ナイロン繊維」であったが、さて、何と比較してその優秀さを誇っただろう?

 ナイロンの発明者で米デュポン社の天才化学者カロザース(Wallace Hume Carothers、米、1896~1937年)はナイロン誕生が発表されるちょうど2年前、ホテルの一室で青酸カリ服毒により自殺した。享年41歳、新婚2年目の春の日の悲劇だった。そして、その7ヶ月後、娘ジェーンが誕生したのである。カロザースは1896年アイオア州バーリントンで4人兄弟の長男(弟と2人の妹)として生まれた。子供の頃は機械いじりに熱中する少年で、学校では内気な生徒として有名だった。父親が副校長をやっていた関係で商科大学に進学するが、ここを19歳で卒業した後ミズーリー州のターキオ大に入る。最初は言語学を学んだが、化学者パーディー(Arthur M. Pardee)と出会い専攻を化学に変え、24歳で卒業。さらにイリノイ大の大学院に入り25歳で修士号を取った。その後1年間パーディーが教授職で移った南ダコタ大で研究を行い、再度イリノイ大に戻りロジャー・アダムス(Roger Adams、米、1889~1971年) の研究助手をしながら28歳でPhDを取得。30歳でハーバード大の講師になり高分子化学の基礎研究を精力的に行うという、優秀なキャリアを積んでいたのである。先に起きる悲劇など誰も想像もできなかっただろう。

 ところで、カロザースは講義が苦手であった。内気な上うつ気質を持っていたため、人前で話すことが苦痛でしかたなかった。丁度その頃、米デュポン社は新たな化学の時代に向けた研究者を求めており、若き天才カロザースに目を付け、引き抜きを試みたのである。しかし民間企業では自分の目指す基礎研究を行う自由さが無いことや、持病のうつ病が企業活動に適さないと考え、彼らの招聘を断った。しかし強い説得についに折れ、1928年31歳の時、デュポン研究所に部長待遇で(しかもハーバード時代の2倍の給料で!)移ることになる。そこでカロザースは化学の基礎的純粋研究を行うことを許された。そして樹脂の分子構造の解明をテーマに選んだのである。当時、「ゴムなどの樹脂は小さな単位分子(モノマー)が鎖のようにつながり高分子(ポリマー)を構成している」との説があったものの、誰もそれを証明した人はいなかった。

 彼のグループは、小さなモノマーをどんどん重合させて、できるだけ長い高分子を作る実験を始めた。そして1931年には世界初の合成ゴムを、さらに1935年には世界初の合成繊維を発明したのである。それらは共に革新的な成果であり、しかもそこにいたる物語はなかなかドラマチックであった。まずカロザースが入社した1年後に、大恐慌が発生しニューヨークの株式暴落を引き金に世界中に経済危機が走ったのだ。さすがのデュポン社も基礎研究に天才を遊ばせている余裕は無くなり、新しい研究所のボスがカロザースに金になる「実用化研究」を命じたのである。

 まず生産に耐えうる人工ゴムを作れ、という指令が降りた。コリンズという研究者がこれの担当になった。彼はそれまで人工ゴムの作成を何度も試みたが失敗続きであり、今回カロザースのラボに配属されたのである。ここでカロザースの基礎研究の知識と重合の手法がうまく生かされた。当時ゴムの原料とされていたイソプレンを使うことをやめ、近い材料のブタジエンとアセチレンを重合させてみたのである。するとクロロプレンと呼ぶ、ゴム状のものが得られた。しかし保存中に勝手に重合が進み劣化が生じる、さらに強烈な悪臭を放つため実用化は困難を極めた。ここでグループ外の研究者の協力を得て、1931年「ネオプレン」と呼ぶゴムが見事完成した。

 これに気を良くしたボスは次の指令を出す。「絹のような優れた人工繊維を作れ」というさらに困難なものであった。当時、綿や麻、そして日本から輸入されて評判の良い絹などの天然繊維が衣料品に使われていた。これを人工繊維で置き換えようという壮大な目標である。実は、カロザースの下で、すでにヒルという研究者がエステルのポリ化を試みていて、ポリエステル繊維の試作に成功していた。しかしその試作品は、熱湯に弱く実用に耐えられないものであった。そこでカロザース達は様々な物質の重合に精力的にチャレンジをした。そして1934年ついにナイロンの素材となるポリアミドの合成に成功、それは繊維状の長く強い糸を引くことが確認された。カロザースはこの成果に自信があった。しかし、その作成プロセスにかかるコストは高く実用的ではないと経営層から却下され、開発は振り出しに戻ってしまったのである。

 当時カロザースは多くの仕事を抱え多忙だった上、既婚女性との恋愛問題と実家の財政上の問題を抱え、うつ状態がひどくなっていた。そんな中ではあったがメンバーたちの努力は続いた。そして1935年2月ついに商品化できそうな「ポリアミド66」の合成についに成功したのである。加えて、カロザースは1936年2月に晴れてデュポン特許部の女性と結婚をし、4月には名誉ある米国化学会メンバーに産業界から初めて選ばれた。が、しかしこれらの喜びも彼のうつ状態改善の薬にはならなかったのだ。6月には入院、9月に退院して研究所に現れたものの、実務に就ける状態ではなかった。1937年1月、不幸にも妹のイザベルが死亡する。そして同年4月、彼は会社に姿を現した後、翌日ホテルで服毒自殺をしたのである。遺書は無かった。ただ「自分は能力も衰え、何もたいした仕事ができていない」と悔やみ、アルコールに浸る日々を送っていたという事だった。

宿題76)カロザースの研究助手によると、彼は「ゴムや繊維を作ろうとしていたのではありません、とてつもない○○を作ろうとしていたのです」という事だったらしい。彼の本当の夢は何だったのだろう?

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