teruji-kun TENSAI-UFO...天才UFO vr2.0

HOME | 道具・力学 | 熱・化学 | 電気・磁気 | 量子・相対論 | 電子・IT・新技術

* 電子・IT・新技術16:パソコン(1977年:アランケイ)

Q97:アラン・ケイ(米1940-)がパーソナル・コンピュータ(PC)の概念を考えついた時、そのアイディアの価値をまず誰に評価してもらったのだろう?

 大型装置を小型化する方向は、技術進化から見て素直な流れと言える。カメラ、時計、ラジオなど多くの先端機器はこの方向で進化し、需要を拡大させて来た。ではコンピュータはどうであったか?現在の状況を知っていれば、これも小型化しパーソナル化することは当たり前で、パソコン(PC)が現れることなど誰でも考え付くことだと思うだろう。しかし、そうではなかった。1968年にアラン・ケイ(Alan Curtis Kay、米、1940年~ )がPCのアイディアを提案した時、多くの大人は「そんなものができるわけがない、全くばかばかしい」と笑い飛ばしたのである。当時のコンピュータは巨大で広い部屋を占有し、大学などごく一部の研究機関のみが持てる非常に高価なものであった。ところが、時代は想像以上に早く進化する。1970年代にはPCの原型が生まれ、個人が使えるアップルIIが販売されるに至ったのである。

 ケイは一体、どのような「奇抜」なPC像を描いたのだろう?形態と目的の2点からそのビジョンを示してみよう。まず形態は、A4サイズ程度の「ディスプレイ」が付いた子供が持ち運べる小型軽量コンピュータであった。又、使いやすい「GUI(Graphic User Interface;図柄(アイコン)でコンピュータと対話するインターフェイス)」を「マウス」で操作する方式であった。この形態はまさに現在のノートPCやタブレットPCである。しかし68年当時、薄いディスプレイやGUIはまだ実現されていない。ところで、形態以上にケイの概念のすごい所はその目的である。それは「子供が勉強しやすい環境を作る」ためであり、単なる計算機ではなかった。そして「他人に自分の考えを伝えるメディア」、つまり人類のための新しい言語や図というリテラシーとして構想したのである。常に、子供たちへの教育的期待がケイの中で強く働いていた。それは彼の育った環境から出て来た発想だったといえる。

 アラン・ケイは1940年、米マサチューセッツ州で生まれる、祖父はオルガン奏者だった。3歳で言葉を覚え、小学校に上がる頃には既に150冊以上の本を読んでいた。このため小学校では先生の間違いがわかり、それを指摘したため先生から嫌われたのである。しかし4年生の時、素晴らしいクラーク先生に出会った。彼女は教室の中にわざとガラクタを置き、子供たちがそれらで遊ぶ事を奨励したのだ。そして授業を聞かずにそのガラクタを使い電磁石を組み立てているケイをもとがめず「みんなも興味ある?一緒に作ってみよう」とクラス中を巻き込んだのである。そしてその後「誰かが興味があることをグループで行う活動」を数年間続けた。子供の感性を重視し、その興味と能力を引き出す教育を徹底して行ったのである。これがケイの人生に大きな影響を与えることになった。

しかし、高校、大学はそのような環境ではなかった。そのため高校、大学と進学するにつれて反抗的態度が進み、それぞれを退学する。そして祖父の影響で音楽にのめりこみロックやジャズの演奏に熱中した。21歳で空軍に入ったのだが、そこでも上官に反抗し懲罰が繰り返される中、コンピュータの試験に合格する。その後、空軍の援助でコロラド大に進学し、数学と分子生物学を学んだ。そしてユタ大大学院に進学、1968年にエンゲルバート(Douglas Carl Engelbart、米、1925~2013年)の発明した「マウス」を見て衝撃を受け、PCのコンセプトを発案したのである。彼はこれを「ダイナブック」と呼んだ。現在の電子ブックに繋がるビジョンも既にその中に含めていたのである。

 ケイは大学院でサザランド(Ivan Edward Sutherland、米、1938~)の下、GUIの研究を行い博士号を取得し、1970年ゼロックスのパロアルト研究所の設立に参加する。ここでダイナブックの構想を実現するため、初めてのPCの原型「アルト」を仲間と開発した(1973年)。それまでのタイプライター入出力方式に代わりCRTディスプレイを、又初めてのオブジェクト指向言語「スモールトーク」を、初めての「GUIインターフェイス」を、そして初めての「イーサーネット」の原形ネットワークなどを「アルト」の中に実現させていた。まさにケイの構想を実器として作り上げた画期的なシステムだったといえる。ところが、ゼロックスの経営上層部は、この開発を無意味として捨て去ったのである、まさに大人の判断であった。ところがここに、子供のような若者が見学に現れる、アップル社を作ったばかりのスティーブ・ジョブス(Steven Paul "Steve" Jobs、米、1955~2011年)だった。彼はアルトを一目見るなり、その革新さに魅了された。とりわけGUIとマウスに強い興味を持ち、この技術を即彼らの次の新しいPC「マッキントッシュ」に採用したのである。さらにケイを引き抜きアップル社に参画させた。

 もちろん、ケイだけが一人でPCを作り上げたのではない。そこに至るには多くの天才や奇才が活躍・融合しながら、PC実現への大きな流れを生み出して行った。そして、その流れには大きな3つの源流があった、一つは電卓の高性能化のため「半導体マイクロプロセッサー」を生み出した日本の嶋正利(しま まさとし、日、1943年~)のハードウェア開発の流れ。彼はインテルと組んで、計算用の半導体LSIチップ(CPU)を開発した、それは4bitから始まり、8bit、16bitと進化してゆき、パソコンの頭脳部品となったのである。2番目は、ブッシュ(Vannevar/væˈniːvɑr/ Bush、米、1890~1974年)が発案しエンゲルバート、ケイと進化する情報検索手法ハイパーメディアの概念とそれを実現するソフトウェアの流れである。そして3番目は、インターネットを柱としたネットワーク技術の流れ(電子・IT13話参)、これらの流れが有機的に繋がり、多くの周辺技術やデバイスの進化を促しながら、現在のパソコンに結晶化されて来たと言えるだろう。(トランジスタ技術、2015年8月号に掲載)

宿題97: ケイは子供の教育に大切なものが2つあると言っている。一つは「文字を教え、本を読めるようにすること」、さてもう一つは何と、考えただろう?

*NEXT

次は何を読もうか↓(下の目次か右側のリンクより選んで下さい)

内部リンク

外部リンク