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* 電子・IT・新技術13:インターネット(1969年:ARPA)

Q92: 電力線は電力会社のもの、電話線は電話会社のもの、ではインターネットは誰のもの?

我々は空気(酸素)を呼吸することに、金銭を払っていない。空気は無料だと考えている。これは何故だろう?それは空気の所有者もしくは生産者が不明だからである(地球か植物か)。インターネットもこれと同様に、所有者を限定せず無償で公開され、ユーザに平等に使ってもらう通信インフラというコンセプトで展開されて来た。しかしここに金のにおいを嗅ぎ付け、大いに儲けるものが現れてくると、資金を出しているインフラ設置者は黙ってられなくなる。なぜ彼らが旨い汁を吸い、我々は奉仕する義務があるのか?この問題を解決するのは簡単ではなさそうだ。利権の問題は少し置いておくとして、この技術がどのように生まれて来たのかを振り返ってみよう。

 1961年、米ユタ州で3つの電話中継基地が爆破されるという事件が起きた。この時国防回線は完全にストップ、米国国防省は核戦争などの危機状況においても機能する通信システムを強く望むようになり、国防省研究機関ARPA(Advanced Research Project Agency) に研究を依頼した。ここでリーダシップを取ったのがリックライダ(Joseph Carl Robnett Licklider、米、1915~1990年)である。彼の父は農業、鉄道、セールス等で家計を支え、セントルイス商工会議所会頭にまでなった苦労人で、42歳の晩婚でできた一人っ子がリックライダであった。少年時代は模型飛行機や自転車、自動車分解に熱中する。ワシントン大で芸術を勉強し始めるが、その後工学、物理、数学、心理学と学びの興味を移しながら卒業。そして心理学で修士号を、さらにロチェスター大に移り、聴覚の脳機能研究で博士号を取った(1942年)。まさに多くの融合領域を抱える異才であった。

 彼は1942年卒業以降、ハーバード大やMITで音響心理学者として、脳認識の観点から音響技術の研究を続ける。1951年、国防からMITへの依頼でコンピュータインターフェイスである「ライトペン」の開発に心理学者として参加する機会を得て、コンピュータに親しむようになった。その後、音響技術会社(BBN社)を作った知人から誘われ1957年にMITからBBNの音響心理研究所に移り、MITの後進を誘い入れる。その一人がコンピュータマニアでプログラマのフレドキン(Edward Fredkin、英、1934年 ~ )。BBNは彼のためにDEC社等の最先端コンピュータを購入し、メンバーにプログラム技術を教えさせた。ここでコンピュータの可能性を確信したリックライダは、IEEE前身の技術協会からの依頼で、1960年、コンピュータと人間の未来像を予言した歴史的論文「人とコンピュータの共生」をフレドキンとの共著で発表する。そこには、人とコンピュータがお互いの強味を統合し、リアルタイムに反応するシステムを作るため、コンピュータ情報検索図書館(データ)を持つシンキング・センターを構想。複数のセンター間を広帯域通信回線でつなぎ、ユーザがこれらをシェアしながら安価なコスト負担で、巨大なデータとプログラムを活用し、コラボレーションできる世界が描かれていた。さらに具体的に、グラフィカルインターフェイスを持つ対話型端末と分散型コンピュータまでが示唆されていたのである。これはまさに現在のインターネット構想近いものであり、人類の知的活動能力を高めることが目指されていた。

 ARPAはこの論文に感銘を受け、1962年リックライダをプロジェクトリーダに雇い入れる。このプロジェクトで彼は「コンピュータのタイムシェアリング」「銀河間コンピュータネット構想(各機関のコンピュータを相互接続し自在に利用可能となる世界)」を提言し、西海岸とMIT間でコンピュータのタイムシェアリングを実証。その後、MIT、カーネギー工科大(現カーネギーメロン大)、UCバークレイなどでOS開発を指導、それぞれがコンピュータの先端大学となる。リクライダが1964年IBMに移った後も彼のビジョン実現はARPAによって継続され、ついに1969年UCLA、SRI(スタンフォード研究所)、UCサンタバーバラ、ユタ大の4ノード(接続点)間でコンピュータ相互接続が実現する。このネットワークはARPANETと呼ばれ、今日のインターネットの始まりとなった。リックライダは先端テクノロジーが社会にどう生かされるかを見通せる稀有な人材だったのである。

 ところでこのネット実現のためには、ネットワークコンセプトの他に「パケット通信」や「通信プロトコル」というキー技術が必須であった。パケット通信とは情報を小さな単位包に分解して、それぞれを別ルートで送付し受信地で再構成させる方法。こうすることで、回線の混雑や断線に柔軟に対応でき、危機対策が可能となる。1964年バラン(Paul Baran、米、1926~2011年)は有事の際の通信の生き残り技術として、分散型のパケット通信方式を提案。翌年、デービス(Donald Watts Davies、英、1924~2000年)は将来の大量高品質通信をめざし同様なパケット方式を提案した。これらの提案に数学的理論付けをしたのがMITのクラインロック( Leonard Kleinrock、米、1934年~)。パケット通信の手法は、既存の電話通信方法に比べ、少ないネットワーク資産で多くの情報を効率良く遅れることが証明された。かれらの発案はARPANETに生かされ、現在のルーター(通信制御装置)に相当するデバイスが開発され、通信手順を規定した通信プロトコルが決められた。これらによって、ネットワーク技術の基盤が1970年頃確立したのである。(トランジスタ技術、2015年7月号に掲載)

宿題92:ARPANETで最初に送られた通信内容とはどのようなものだったか?ちなみに電話の時は「ワトソン君ちょっと来てくれ」だった(第47話参考)

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