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* 電子・IT・新技術4:不完全性定理(1931年:ゲーデル)

Q73:ある日、ダイキ君は友人のトモヤ君から奇妙なメールを受け取った。「…このメールの内容はウソです」と最後に書いてある。さてこのメールを信用してよいだろうか?

 この最後のコメントが真実と仮定すると、ウソというコメント自体ウソになるため、メールの内容は真実となる。しかしこれはコメントがウソということになり最初の仮定に矛盾する。一方、このコメントがウソだと仮定すると、メール内容は真実となる。そうすると「…このメールの内容はウソです。」を含めて真実なのだから、これはまた仮定に矛盾する。というわけでどう仮定しても矛盾が生じるため真偽判定できない文(命題)となるのである。

 このタイプの命題は「うそつきのパラドックス」と呼ばれ、BC600年頃クレタ人哲学者エピメニデス( Epimenidēs、クレタ島、生没年未詳)によって「クレタ人はいつもウソつき」という詩の形で提示された。そして後に数学論理上の大きな発見に繋がる事になる。ゲーデル(Kurt Gödel、チェコ、1906~1978年)はこの文を「この文は証明不可能である」と書き換えることで、とても奇妙な内容になる事に気づく。そして、完全のように見える数学理論の中に、「真とも偽とも決められない命題」、「証明も反証もできない命題」が必ず存在する事を「数学的」に証明してしまったのである。それを発表した時、数学界・哲学界は大混乱に陥ってしまった。

 ゲーデルは1906年チェコのブルンに、オーストリア人の父とライン出身の母のもと次男として生まれた。母はヒステリーやひきつけを起こしやすく感情が不安定になりやすい持病を持っていたが、それを彼も引き継いだ。彼はカンが強く非社交的かつ対人恐怖症で登校拒否児童だったため、母親が自宅で教育を行った。エジソンに似て(電気・磁気10話参)、何に対しても「なぜ?どうして?」を何度も繰り返すため周囲は困り果て、「なぜくん」と呼んでいたらしい。高校に入ると勉強に熱中し独語、仏語、英語をマスター、ギリシア語、ラテン語なども読めるようになった。又、速記術もこの頃覚えたようだ(後の記述に速記を使っている事が多い)。1924年(18歳)でウィーン大に進学、最初は物理を学ぶが、新たな数学を開拓する意義を熱心に語る半身不随の数学者フルトベングラー(Philipp Furtwängler、墺、1869~1940年;有名な指揮者の従兄弟)に出会い、数学に転向。そこで新しいウィーンの学問への熱気を感じ取っていくのである。当時、科学哲学者モーリッツ・シュリック(Friedrich Albert Moritz Schlick de_schli.ogg、独、1882~1936年)をリーダとする哲学サークルがあり、物理、哲学、数学、社会学、言語学が境界無く熱く議論されていた。ゲーデルはそのサークルにも参加し、数学基礎論に熱中したのである。

 ゲーデルの青春時代の歩みと並行して、20世紀初等、数学の世界でも大きな進化が生じていた。その指導者は大御所ヒルベルト(David Hilbert、独、1862~1943年)である。ヒルベルトは「現代数学の父」とも言われ、19世紀までの数学体系を整理し、まだ未解決の重要な問題23個をピックアップして、数学の未来への方向付けを行った(ヒルベルト23の問題:1900年)。問題を「解く」天才はほどほどに現れるが問題を提言する天才は少ない。さて、このヒルベルト、当時集合論において様々な矛盾(パラドックス)が発見されていたことを問題視して、数学論理の完全性と無矛盾性を証明する活動に数学者を巻き込み始めていた(ヒルベルト・プログラム;1920年代)。真理の追究は人にとって、大きな夢であり、とりわけ数学はその究極的学問といえる。そこに矛盾の影があってはならない。多くの有能な数学者がこのプログラムに関わって行った。若きゲーデルもこの課題の存在を知り、シュリック・サークルで鍛えられた検証力でもってこれにチャレンジしたのである。

 ゲーデルはラッセル(Bertrand Arthur William Russell、英、1872~1970年)らの見つけた集合論でのパラドックスを詳しく調べることで、数学自体の無矛盾性を証明することが難しいのではないかと感じ始めていた。そこでまず、集合の論理式を自らが発見した「ゲーデル数」を用いて自然数の形式に翻訳した(ゲーデル文と呼ぶ)。次に「うそつきのパラドックス」を利用し、ゲーデル文に関連付けていったのである。そうするとゲーデル文が「この文は証明不可能である」なる意味を含んでしまう事を見つける。次に「数学は無矛盾である」事をゲーデル文に翻訳すると、これが証明不能であることを証明できたのである(ああ、ややこしい!)。かくて、次の「第一不完全性定理」が生まれる、

 ・公理系が無矛盾であるなら、証明も反証もできない命題が存在する…①

そしてさらに議論を進め、より恐ろしい「第二不完全性定理」を生み出した、

 ・公理系が無矛盾であるなら、自身の無矛盾性を証明できない…②

 いったい何だこれは!自分自身が矛盾無いことを証明できないとは!?数学はもちろん哲学も崩壊してしまうではないか!まさにゲーデル24歳での快挙であった。これによって、ヒルベルト・プログラムは大衝撃を受けてしまったのである(1931年)。

 ゲーデルはその9年後、「ヒルベルト23問題」の第1課題「連続体仮説」を見事証明する(1940年)。そしてこれ以降、ナチを逃れて家族でアメリカに移った。そこにはやはりナチを逃れて移住していたアインシュタインが居たため、その後は家族ぐるみの付き合いが始まり、相対論の研究も始める。そして1949年、一般相対性理論のゲーデル解を発表、その解があまりに異様な振る舞いをするので、アインシュタインは自分の理論はどこかおかしいのではないかと思ったらしい。一方で、ゲーデルの持病の脅迫神経症と被害妄想は、どんどん激しくなって行った。1970年に入ると毒殺される恐怖で、妻の料理以外は一切食べなくなり衰弱が進む。夏でも冬服を着込み、人前には出ず、自宅にこもり哲学と論理学研究にふけった(なにやらピアニストのグレン・グールド(Glenn Herbert Gould、カナダ、1932~1982年)に似ている)。1977年に入院するが病院が自分を毒殺をするに違いないと考え、食事を拒否し栄養失調のため71歳で死去した。

宿題73:「このゲーデルについての文章は本当です。」と著者は言っているが、果たして信用できるだろうか?

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