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* 量子論・相対論4:原子模型(1911年:ラザフォード、ボーア)

Q65: 19世紀末、科学者はそれ以上細かく分解できない、万物の素を「原子」と考えていた(熱・化学8話)。ところが、その原子の中から「電子」が飛び出して来たではないか(電気・磁気18話)。さて、これだけの情報から「原子の中身」を想像した人たちがいる。どのような原子の構成(モデル)が現れただろう?あなたも考えてみよう。

 今から100年ほど前20世紀初頭の、人類の原子の理解はこのようなものであった。実に幼稚ではないか!しかし、当時の大天才でもこの程度(失礼)なのである。見えない程小さいものの中身を想像せよ、といってもどうしてよいのか分からない。せいぜい野菜のスイカや太陽系からの類推をするのが関の山だったのだろう。そこに現れたのがラザフォード(Ernest Rutherford、ニュージーランド、1871~1937年)である。父は英国出身の農夫、1871年にニュージーランドで生まれ、地元カンタベリー大で磁気の研究を行った後、24歳で英国ケンブリッジ大キャベンディッシュ研究所へ留学し、JJトムソン(電気・磁気18話)の指導を受け、気体のイオン化や放射線のα線、β線分類などを行った。その後モントリオールやマンチェスター大を移りながら、α線がHe原子核であることを実証する。さらに弟子のガイガー(Johannes (Hans) Wilhelm Geiger、独、1882~1945年)らが見つけたα線によるAl箔の散乱現象(ラザフォード散乱)から、恩師JJトムソンの原子模型が正しくないことを証明し10^-12mm程度の非常に小さい「原子核」を発見した。そして長岡(ながおか はんたろう、日、1865~1950年)の土星モデルに近い「太陽系型モデル」を提案したのである(1911年)。長岡との差は、中央に鎮座する核の大きさで、ラザフォード・モデルは自身が発見した陽電荷が集中したとても小さい原子核を持つ点にある。さらに長岡は多数(数100から数万個)の電子が回りを回っていると考えていたようだが、ラザフォードは数個から数10個程度の個数で、現在の原子モデルに近いものであった。

 このラザフォードの活躍を横目で眺めていたのが、彼の研究室に数ヶ月ほど立ち寄っていたニールス・ボーア(Niels Henrik David Bohr、デンマーク、1885~1962年)であった。ボーアは「量子論の父」と呼ばれている天才科学者だが、原子モデルを完成させた人でもある。1885年、デンマークのコペンハーゲンで生まれ、父はコペンハーゲン大の教授、祖父は中学の校長という学者家系の長男であった。家庭では常に最新科学の話題が議論される環境で育ち、コペンハーゲン大に進学、物理を学ぶが、勉強だけでなく弟と共にサッカーでも優れた才能を発揮した(弟はオリンピックに出場しデンマークを銀メダルに導く)。26歳でイギリスのキャベンディッシュ研究所に留学JJトムソンの下で研究、その後先輩のラザフォードを慕い、マンチェスター大で数ヶ月を過ごした。そこで遭遇したのが、ラザフォードの原子モデルであった。

 ラザフォード本人以上に、この新原子モデルの重要性を認識したボーアは、帰国後すぐこのモデルにプランクの量子仮説を適用することで、ラザフォードモデルにあった2つの欠点を修正し、「ボーアモデル」を確立(1913年)する。ラザフォードモデルの欠点とは、

①もし電子が核の周りを回っているなら、光を放出しながらいずれ核に落ち込んでしまいつぶれる
②その光放出波長は連続分布のはずだが、実際には線スペクトル(定まった波長でしか生じていない)
 つまり古典的な「太陽系モデル」では、原子は不安定で原子からの発光状態も事実と異なる。

 という2点であり、ボーアはこれらを解決する為に電子の回転軌道に次のような制限を与えたのである。

③電子の回転軌道は、その角運動量がプランク定数(h/2π)の整数倍に制限される。そして
④発光波長は③で離散化された軌道間のエネルギー差とプランクの量子仮説によって決まる

これは「原子中の電子は離散的に決まったレールの上だけに存在でき、その軌道間を光を出しながら遷移する」という動的な構造を意味している。(参;mvr = nh/2π…③の式表現、⊿E = En-Em=hν…④の式表現)。

 これによって、①と②の欠点を解決でき、さらに水素原子からの発光実験結果を見事説明できたのである。そこでボーアの原子モデルをより原子番号が高い、水素以外の多電子原子(He以降)へ拡張するモチベーションが生まれた。まさに現在の原子モデルの夜明けをこの時迎えたのだが、期はまだ熟してはいなかった。ボーアが掲げた③や④仮説の真意は「電子波の性質」に関するド・ブロイの発見(量子・相対論6話)やシュレディンガーの電子の波動方程式の発明(量子・相対論7話)を待たねばならなかった。

 しかし原子の中身がそれらしく分かって来たことで、人類の好奇心はさらにミクロな領域に向かってゆく。そう次は原子の中心にいる原子核の中身がどうなっているか?である。そして次の疑問が沸いてきた。

⑤なぜ、原子核は正電荷の塊なのに、同種の電荷どうしが反発し合わないで極小さく固まって安定に存在しているのか?

という疑問である。これにチャレンジしたのが、再びラザフォードであった。1919年、彼はα線(実はHe原子核のこと)を窒素、ホウ素、ナトリウムなどの原子に衝突させると、なんとH(水素)原子核が飛び出し、元素が他の元素に変換されることを発見したのである(まさに錬金術であった!)。彼は「各元素の原子核がα線(He原子核)の衝突により壊され、その内部に含まれていたH原子核が飛び出したのだ」と考え、最も基本的なH原子核を「陽子」と名付けた。しかし⑤の問題にはこれだけでは答えられない。そこで

⑥質量がほぼ陽子と同じで電気的に中性の粒子(中性子)が陽子と共に原子核に存在しているのではないか

と予言(1920年)する。この中性子は弟子のチャドウィック(Sir James Chadwick、英、1891~1974年)により発見され、実証されたのである。しかし、中性子モデルでは⑤はまだ謎のままであった。一体何が原子核を安定に固めていたのだろう??

宿題65: さて⑤の謎を解いてみよう(これを解くとノーベル賞が取れます)

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