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* 電子・IT・新技術2:飛行機(1903年:ライト兄弟)

Q62:飛行機の発想は鳥の飛行から来ている。しかし、その両者には大きな違いがあるのだが、それは何か?

 ばかばかしいと思ったかもしれない。しかし、レオナルド・ダ・ビンチは鳥のように羽ばたく機械を設計し提案している(1490年)。そして羽ばたくことこそが、飛翔の最重要条件だと考えていた。ダ・ビンチ以降の人々も「羽ばたき」の呪縛から逃れられず、羽ばたく機械で飛行を実現しようとして200年以上失敗を繰り返したのである。羽ばたきを人工的に実現する困難さを認識し、その機構を捨て去ったのが英のジョージ・ケイリー(Sir George Cayley、英、1773~1857年)である。彼は鳥が羽ばたかずグライドして飛ぶ様子から、1790年代に固定翼によるグライダーを設計、試作した。1810年には「空中航行」に関する3部作の論文を発表し、航空工学のパイオニアとなる。さらに1849年に三葉翼とひれのような尾翼を持つグライダーを作り、丘の上から10歳の子供を載せて、数メートル滑空することに成功、その4年後には大型のグライダーで自分の孫を乗せ153mの飛行に成功した。これらが最初の人類の飛行と言えるだろう。彼のグライダー構造は現在の飛行機と基本的に同じものであり、そのレプリカはヨークシャー航空博物館に展示されている。

 1896年、独の飛行研究家リリエンタール(Otto Lilienthal 、独、1848~1896年)はグライダーの試験飛行中に失速し、48歳の若さで衝撃的な墜落死をする。飛行にあこがれていた米の自転車販売業を営むライト兄弟はこの話を聞き、飛行における操縦の重要性を認識して、安全な動力飛行(推進力のある飛行機)の夢を強く持つようになる。それまでの飛行機(グライダー)開発は飛行理論や構造設計が中心の技術的な内容が多かったが、実際に安定に飛行させるとなると、機体の操縦と制御が構造以上に重要になるのである。彼らはそこに気付き、グライダーを何度も飛ばしながら、飛行制御の改善や操縦の訓練を続けていった。学者ではない彼らなりのアプローチだったのだろう、そしてそれが実を結ぶのである。

 ライト兄弟とは、牧師の父を持つ5人兄弟の3男ウィルバー(Wilbur Wright 、米、1867~1912年)と4男オービル(Orville Wright 、米、1871~1948年)の2人を指す。兄弟は牧師である父のもとオハイオ州デイトンで生まれる。10代の頃、印刷機に興味を持ちこれを自作し新聞を創刊した。母親が死亡したため高校を中退して、兄弟で「ライト&ライト印刷所」を創業する。その後1892年(兄25歳、弟21歳)で「ライト自転車商会」を設立し、印刷業の傍ら自転車の修理、製作、販売を手がけ始めた。そして自作の自転車でレースに参加し優勝、評判を呼ぶ事になる。自転車業も順調になっていた頃、先ほどのリリエンタール事故死のニュースを聞き、2人は飛行機へのチャレンジを決めたのである。兄29歳、弟25歳の頃であった。

 何の知識も学歴も無い彼らは、まずスミソニアン博物館の図書「飛行機械の進歩」(著者シャヌート;Octave Chanute 、仏⇒米、1832~1910年)を手に入れ熟読する。そしてその著者に自分達の飛行の計画を書き送った。シャヌートは彼らに助言と励ましを与え、その後も彼らへの支援を続けたのである。又、彼らは鳥の飛行を注意深く観察しながら「固定主翼の左右を逆にねじる方法による安定な旋回技術」や「垂直尾翼を方向陀にする技術」など、今日でも使われる飛行機体のコントロール方法を発明した。そして1900年から風が強く飛行条件の良いNC州キティーホークで、グライダーを用いた飛行制御訓練を3年以上に渡り行い、その技量を上げていったのである。

 さて、ここまでは飛行制御の準備であった。いよいよ動力飛行にチャレンジするため、エンジンとプロペラを設置し始める。しかし当時のエンジンは自動車用で非常に重い上、プロペラなどの入手は困難であった。そこで彼らは自転車業で鍛えた技術で自作するのである。エンジンは動力効率の良い12馬力水冷ガソリンエンジンを100kg以下で作り、プロペラは参考資料も無い中、試行錯誤で作り上げた。これらを乗せた「ライト・フライヤー1号機」は1903年12月14日、まず兄のウィルバーが操縦し、飛行にチャレンジする。しかし、滑走後3秒ほど浮いたもののすぐに失速し砂に落ち失敗。幸い故障箇所はわずかだったのですぐに修理して、天候の良い3日後の17日、今度は弟のオービルがチャレンジした。果たして、フライヤーは滑走後浮き上がり、上下動を繰り返しなんとか12秒間36mの飛行に成功した(彼らは写真に記録を残している)。そしてさらに飛行を繰り返し、その日最長59秒間255mの動力飛行を達成したのである。兄36歳、弟32歳での快挙であった。

 ライト兄弟は著名な航空学者では無くただの自転車屋だった為、その成功に大きな批判と妬みが集中した。著名な科学者はこぞって「空気より重い機械が飛べるはずが無い」とその成功を疑問視し批判をする。スミソニアン博物館に至ってはライトフライヤー号の展示を断った。さらに多くの特許訴訟が起こされ、常に戦う羽目になってしまうが、幸い裁判所は公正にライト兄弟の先駆的特許を認めたのである。しかしこれらの騒動に疲れてしまった兄は45歳の若さで他界する。その後、スミソニアン博物館との和解折衝を勝ち取り、ようやく40年後にライト兄弟の偉業が認められた。しかしその時すでに弟のオービルも死亡していた。

宿題62:日本で始めて動力飛行に成功したのはいつ頃だったか?

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