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* 量子・相対論1:量子仮説(1900年:プランク)

Q60:19世紀末、科学は困難な課題を2つほど抱えていた。一つは光(電波)の媒体として、宇宙にエーテルが存在するかどうか?(電気・磁気14話)。もう一つは加熱した物体が発する光の性質(黒体放射のスペクトル)が理論と実験で少しだけ合わない問題。共に「光」についての課題であった。しかしこの2点以外、科学理論は大勝利を収め、「原理的な問題はほぼ解決し、物理学は完成した」(1900年4月のトムソン講演)と呼ばれるほどに進化していたのである。もし、あなたがそのような時代に科学者をめざすとしたら、どのような研究計画を立てるだろう?(それとも、夢が無いと見て去ってゆくか)

 実はこの2つの問題を解決する中で、2大科学革命の「相対論」と「量子論」が生み出され、19世紀までの科学を古びた「古典論」に追いやってしまったのである。いったい誰がこの「科学革命」を予想できただろう、当時の指導的天才科学者トムソン(William Thomson, 1st Baron Kelvin、英、1824~1907年)ですらそれは不可能だった。しかし科学史上最大の革命がこのささやかな2つの課題から生まれたのである。そしてそれらを解決する若き天才達がアインシュタイン(Albert Einstein、独、1879~1955年)を筆頭に、次から次へ現れ出た。そして古い価値感で権威を得た人たちは、早々に活躍できなくなっていったのである。つまり現状の延長線上で将来計画を立てていても、改善はできるが革新は絶対にできない。課題があるならともかくそれにチャレンジしてみる事で、予想もしない革命の種を引き当てる事がある。それが19世紀末に起こった奇跡であった。神様のいたずらなのだろうか?自然界は予想を超えた巧みさで組み立てられていたのである。

 「正確な実験結果」を尊重しよう。いくら大天才と言われる人が作り上げた壮大な理論も、一つの実験結果により否定されてしまう。判定者は自然現象であり、正確な実験データが審判を与えるところが自然科学の面白さで、怖さでもある。そこには先輩も後輩も無い、大学者も学生も無い、全く公平に評価されてしまう。20世紀の科学は、そういう状況から始まった。扉を開いたのは意外にも老齢(42歳)の科学者プランク(Max Karl Ernst Ludwig Planck、 独、1858~1947年)であった。当時は戦争が多く、武器を作るための製鉄業が繁栄していた。そして製鉄のために溶鉱炉の温度を管理する技術が重要になったのである。この高温温度は、熱してドロドロに溶けた鉄から出る光の色合い(スペクトルと呼ばれる波長特性)を調べ管理されていたのだが、製鉄現場での色合いの特性が、当時の理論とわずかだが、長波長側でずれていたのである。つまり実験データが理論(ウィーンの放射則)と合わず、作業現場の技術者が困っていた。この問題にプランクが取り組んだのだが、いくら理論を改良しても実験に合う答えが出ない。ほとほとプランクは困ってしまった。

 さてプランクは1858年、独キールに生まれる。ミュンヘン大で数学を学ぶが興味が熱力学に移った。しかし当時熱力学は「終わった分野」であり、指導教官から熱研究の将来性を否定され、ベルリン大に移る。ここで熱の大御所ヘルムホルツ(Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholtz、独、1821~1894年)とキルヒホッフ(Gustav Robert Kirchhoff、独、1824~1887年)の指導を受けエントロピー研究で1879年博士号を取得(21歳)した。その後15年間ボルツマン(Ludwig Eduard Boltzmann、墺、1844~1906年)のエントロピー論をベースに熱学研究に集中する。この終わったはずの分野をじっくり研究したことが、後の大発見に繋がったのである。趣味はピアノ演奏で、かなりの才能があったようだ。ミュンヘン大、キール大、ベルリン大の教授を歴任し、最終的には学長に就任する。しかし2度の世界大戦を経験し家族は幸福ではなかった。まず1次大戦で長男を亡くし、2次大戦ではアインシュタインを追放したヒトラー(Adolf Hitler、独、1889~1945年)に抗議をし「国賊」となる。さらに、次男はヒトラー暗殺を計画したため処刑され、家は空襲で焼け疎開生活を余儀なくされた。しかし戦後、運が巡り彼を記念したマックスプランク研究所が開所され所長になる。この研究所は21世紀にいたるまで世界の物理学研究の一大拠点となった(31名ものノーベル賞受賞者を輩出している)。

 さて、古い熱学研究が大好きで保守的とも言えるプランクが実験結果とそれに合わない古いウィーンの放射則(①式)とを何度も比較検討しながら、(無理やり?)作りあげたのが②式に示したプランクの輻射則であった(1900年12月14日)。

  αν^3/exp(βν/T) …①、  αν^3/{exp(βν/T)-1}   …②

ここでα, βは実験的に決まる定数、νは光の振動数、Tは絶対温度である。

 違いは「分母のマイナス1」だけ。しかしこのマイナス1を入れることで実験結果とぴったり合う事に気づいたのである。最初は実験に合わせるための数式だったが、「h=6.626×10-34Jsなる定数を利用し、hνを光エネルギーの基本単位とみなす」という物理的仮定をもとに②式を導いた。この仮定はプランク自身「自暴自棄に導入した物理的仮定」であり、一体それが何を意味するのか本人ですら分からなかった。当然、批判の的になる、しかしこの式こそが科学革命の種だったのである。ここから自然界への認識は大きく変るのである。そしてプランク自身も理解できなかった仮定は、それから5年後、アインシュタインによって「光の粒子性を意味している」と解釈され、量子論が誕生するのである(量子・相対論2話)。

宿題60:プランクの仮説「hνが光エネルギーの基本単位である」(つまり、光は最小のエネルギー単位を持ちそれ以上には細かく分割はできない、という意味)は従来科学の視点から見てどこが異常(受け入れがたい)なのだろう?

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