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* 電気・磁気18:電子(1897年:JJトムソン)

Q57: 電気と電子の違いは何だろう?

電気の素が電子なら、磁気(磁石)の素は磁子か?いやそんなものは有りそうにない。多くの科学者が磁子(モノポール)を見つけようと努力したが、まだ誰も成功してはいない。ではなぜ、電気の素「電子」は存在し、そして見つかったのだろう?「2種類の+と-の電荷」という考えでは不十分だったのか?実は1750年頃、フランクリンは2種類ある電荷説に疑問をなげかけ、1種類の+の電気流体が電荷の素であり、これが多くなると物質が+に帯電、少なくなると-に帯電する「1流体説」を出している(第21話参)。これが電子説の源である、ただし、フランクリンの説は「+の電気を帯びた流体」としたところが誤っていた。しかし電気の正体が分かっていなかった時代としては非常に鋭い洞察である。

 ところで、電子は急に見つかったわけでは無い。多くの人々の実験と疑問への解決努力からJJトムソン(Sir Joseph John Thomson、英、1856~1940年)によって最終確認されたものであった。当時の時代背景はこうである、1858年独のプリュッカー(Julius Plücker、独、1801~1868年) は真空放電管(ガイスラー管)の放電実験において、真空度を上げていくと放電によるガス発光が薄れ、しだいにガラス管自体が緑の蛍光を示す現象を発見する。これは陰極から「正体不明な放出線」(陰極線)が出て、ガラスをたたくためと考えた。1875年頃、英のクルックス(Sir William Crookes、英、1832~1919年)はさらに真空度を上げた実験を試み、陰極線の進路中に物体を置くとその明瞭な影が出来ることや、小さな羽根車を置くとそれが回転すること、そして磁石により陰極線が屈曲することなどを示し、この線は微小な物質粒子の流れであると考えた。しかし、陰極線は金属箔を通り抜け外に取り出すことも出来た(レーナルト1892年)ため、エーテルの波という波動説も現れ、電波実験で有名なヘルツなどはこちらを信じていた。つまりトムソンの前に「陰極線」とい不可思議なモノが見つかり、その正体を多くの科学者が解明しようとしていたのである。

 陰極線の一連の現象を分析したアイルランドのストーニー(George Johnstone Stoney、アイルランド、1826~1911年)は「-に帯電した粒子の流れであり、粒子の質量と電荷の比により電界や磁界中で曲がる」と現在の電子像に近い考えを示したが、電界による明確な曲がりが観測できず、壁に阻まれる。ここにJJトムソンが登場した。彼は電界による曲がりが観測されないのは、放電管の真空度が悪く、陰極線が残留ガス粒子によって散乱されてしまい、電界による曲がりが邪魔されている。(つまり実験の精度が悪い)と分析、当時の技術を駆使し、出来る限りの真空度を実現することで電界による陰極線の曲がりの観測についに成功する(1897年)。この実験により、新粒子の質量は水素原子の約1000分の1で、負に帯電していることが判明した。又この値は陰極の金属の種類を変えても変わらず、自然界の基本要素(粒子)であろうと考えられた。その後この粒子はストーニーが名付けた「電子(electron)」と呼ばれるようになる。

 さて、この偉大な解明(電子の発見で1906年ノーベル賞受賞)を行ったJJトムソンとはどういう人であろう?1856年英マンチェスターに古本屋の長男として生まれる、母は織物業経営一家の出身で比較的裕福な家庭であった。小学校時代から科学に強い興味を示し14歳でマンチェスター大に入学、17歳の時父親を亡くすが20歳でケンブリッジ大給費生になる。24歳で数学の学士(2位で卒業)を取り、28歳でマクスウェルの後を継いでキャベンディッシュ教授職(所長)に就く俊才であった。34歳の時同大の物理教授パジェット(Sir George Edward Paget、英、1809~1892年) の娘と結婚、息子GPトムソン(George Paget Thomson、英、1892~1975年;1937年電子の波動性実証でノーベル賞受賞)が生まれる。トムソンは33年にわたりキャベンディッシュ研究所長を務めながら、物質の基と考えられる原子の研究に情熱を燃やした。元々数学や理論が得意で実験はむしろ苦手であったが、キャベンディッシュ研の特徴である実験研究にも仲間とともに打ち込み、1897年の電子の実験による発見に至ったのである。

 電子の発見は、科学界に衝撃を与えた、なぜなら物質の最小構成要素は「原子」と考えられていたのが、それより小さい「電子」が見つかってしまったからである。人類は原子の構造というさらに微細な領域に踏み込んで行くことになった。そして量子論の世界を切り開くきっかけにもなった。しかしJJトムソンは量子論の考えには馴染めず、古典的な世界感に留まる。皮肉にも量子の世界を切り開いたのは息子のGPトムソンであった。

宿題57: JJトムソンは英国キャベンディッシュ研究所の所長として見事に自由闊達な運営を行い、自分はもちろん、なんと弟子7名と自分の息子にもノーベル賞を取らせた。和やかで自由な研究環境を作る工夫として、彼は「お茶の会」を頻繁に催したが、この会にはあるルールがあり、○○をしては成らないと命じた、それはいったい何だったか?

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