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* 電気・磁気16:X線(1895年:レントゲン)

Q55: 電波という見えないものを、数式(方程式)によって理論的に発見した事(電気・磁気第8話)は人類の英知の勝利と言える。では、やはり人間には見えないいX線を「実験的」に発見したレントゲンは、偶然あるものが光りだしたことから気づいたのだが、いったい何が光ったのだろう?

 蛍光板とは、「白金シアン化バリウム」という蛍光材が塗られた紙であった、ではなぜそのような蛍光板が偶然実験室にあったのだろう?自然界には、紫外線やX線などを当てると光る物質がある。例えば「ほたる石」などは代表的なものであり、人工的なものとしては、蛍光灯や夜行塗料などが身近で使われている。さて1870年あたりから1900年にかけて、真空中で放電させると発生する「陰極線」(電気。磁気13話参)の研究が盛んに行われていた。ドイツのレーナルト(Philipp Eduard Anton von Lenard、ハンガリー⇒独、1862~1947年)は陰極線を詳しく調べるため、真空放電管の一部に金属箔の窓を付け、この窓から空気中に陰極線を出す装置を発明する(レーナルト管、1892年)。そして陰極線が当たると発光する蛍光板を用いてその新曲線の性質を調べていたのである。レントゲン(Wilhelm Conrad Röntgen、独、1845~1923年)は、1895年当時課題であった、「陰極線の正体は粒子の流れなのかそれともエーテルの波動なのか?」に興味をもち、レーナルトの装置を用いて陰極線の実験を進めていたのである(クルックス管という説もある)。そしてそのために蛍光板を準備していたのだ。

 この実験中に奇妙な幸運に遭遇する。レントゲンはレーナルト管から陰極線を取り出す時に、じゃまになるガラス管の発光(クルックス管で見られる、陰極線をガラスに当てた時のガラスの発光現象)をさえぎるため、管全体を黒い紙で覆い、さらに部屋を真っ暗にして実験を始めた。放電を始めると部屋の遠くに置いた蛍光板がなぜか光り始めた。陰極線は空気中では減衰が激しいため、せいぜい数cmしか空気中には出て来ないはずであった。しかし2mほど遠くの蛍光板が放電に同期して光るではないか?「陰極線ではない見えない何か」が出ているに違いない。そう直観したレントゲンは、その性質を調べる実験に7週間ほど集中した。そしてなぞの線(発生体)が持つ驚くべき性質を明らかにしたのである。「強い透過性(厚い本や金属薄などを透過する)」「磁気の影響は受けない(つまり陰極線ではない)」「蛍光材を発光させ、写真フィルムを感光させる」。彼はこの「何か」をよくわからない線、つまり「X線」と名付け、1895年末に論文を提出した。この時、嫌がる愛妻をなだめすかせて、指輪をはめた妻の左手のX線透過写真を撮影して、手の骨格写真を公表したのである(1896年:世界初めてのレントゲン写真)。

 この発見は驚きをもって、すぐに受け入れられた。受け入れられやすかった理由は、写真という分かりやすい成果があること、そしてレントゲンのこれまでの優れた科学上の実績があったためである。医者がまずこの成果にとびついた。このX線を利用すると診察に有効であることが予想された。実際現在においてもレントゲン診断は有効に使われており、主として骨や肺そしてがん検診で効果を発揮している。「レントゲンによって救われた命は、X線発見後の全ての戦争で失った命の数より多い」と賞賛されているのである。

 さて、レントゲンは1845年ドイツのレネプに、織物商を営む裕福な家庭に一人息子として生まれた。3歳で母親の里オランダに移り住みここで初等教育を受ける。その後ユトレヒトの工業学校で学ぶが、ここで友人をかばい退学処分を受けてしまう。しかし、チューリッヒ工科大(ETH)が高校卒業資格無しで入学できることを知りスイス、チューリッヒへ移り、ETHで機械工学を学んだ。この街では生涯の伴侶となるベルタとも出会った。大学では熱学研究で有名なクラウジウス(Rudolf Julius Emmanuel Clausius、独、1822~1888年、熱・化学19話参)の講義を聞き、物理への関心を高め、クラウジウスの弟子クント(August Adolf Eduard Eberhard Kundt,、独、1839~1894年)の指導を受けた。気体の熱的性質の論文で博士号を取り、その後クントに従い大学に職を求めるが、ビュルツブルク大学はレントゲンに高卒の資格が無いことを理由に教授職を認めなかったのである(1870年)。その後、苦労しながら様々な大学で講師を続けつつ研究実績を上げ、再度1888年ビュルツブルク大に戻りようやく教授職を得る事ができた。そしてなんと6年後に49歳で若くして学長になり、翌年50歳の時にX線の大発見をしたのである。なんとレントゲンは学長になってからも自らコツコツと実験を行っていたことになる!

 さてX線という新な放射線の発見は、科学界に大きな衝撃を与え次々に新たな発見を導いた。翌年の1896年、ベクレル(Antoine Henri Becquerel、仏、1852~1908年)はウランからの放射線を発見、さらに翌年1897年、JJトムソン(Sir Joseph John Thomson、英、1856~1940年)は陰極線が負電荷を持つ粒子「電子」であることを実証し、電子の発見者となる(電気・磁気18話)。さらに1898キュリー夫妻(夫、Pierre Curie、仏、1859~1906年)(妻、Maria Skłodowska-Curie、ポーランド、1867~1934年)は、ウランの他にもラジウム、ポロニウムなどの放射性元素を発見、原子の世界の解明に繋がってゆく。量子物理への扉は、もう少しのところまで来ていたのである。

宿題55: X線が発見されると、多くの企業がレントゲンのもとを訪れ、その成果に関する利用の独占的利用件(特許権)を買いたいと、多額の報酬金を準備して申し込んだ。しかしレントゲンは「○○であるから」という理由で全て断った。その理由は何だったか?

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