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* 熱・化学17:種の起源(1859年:ダーウィン)

Q42:人類はサルから進化したと言われているが、顔面骨格にサルと著しい違いが1箇所ある、直立歩行が原因となったと考えられるその差異は何か?

 ヒトはいつどのように生まれたのか?という疑問は、私たち人類にとっては大変興味ある課題といえる。これに対してほとんどの宗教が「神が、ヒトを生物界の頂点に創った」(創造論)と答えを出し、我々を安心(?)させてくれていた。ところが、これに真っ向から異議を唱えたのがダーウィン(Charles Robert Darwin、英、 1809~1882年)の「進化論」である。しかしダーウィンは非常に温厚な性格の人であり、宗教界との争いはできるだけ避けようとした。そのため多大なデータ(事実)をもとに進化論をじっくり考察、発案から10年以上をかけながら少しずつ発表。人々や社会の反応を確かめることを繰り返し、進化論を完成させていったのである。

 ダーウィンは1809年イギリス、イングランドに裕福な医師の父と有名な陶芸家ウェッジウッド(Josiah Wedgwood、英、1730~1795年)の娘である母親のもと、次男チャールズ(第5子)として生まれた。父方の祖父は高名な博物学者で医師のエラズマス・ダーウィン(Erasmus Darwin、英、1731~1802年)であり、1794年に「多種多様な生物は一つの大元から発生と進化により現れた」とする大胆な「進化論」を発表している。孫のダーウィンを知らずに亡くなっているが、影響を与えたことは事実であろう。チャールズは祖父に似て昆虫採集に夢中になる子供であった、父親のために医者になろうとしたが、勉強が性に合わなかったのと、血を見るのがいやで医師への道は放棄、エジンバラ大医学部を去る。次に牧師になるためにケンブリッジ大に入ったものの、又もや昆虫採集に熱中、しかしここで生涯を通し影響を受けた博物学者ヘンズロー(John Stevens Henslow、英、1796~1861年)に出会った。

 ケンブリッジ大卒業後22歳のとき、恩師ヘンズローの紹介で「ビーグル号5年間の航海」に出る、目的は地質や植物の標本採集であった。この時ヘンズローはライエル(Sir Charles Lyell、英、1797~1875年)の「地質学原理」を手土産にくれたが、この本によって地質調査の方法を学んだばかりでなく、「長大な時間が地質上の多様な変化を引き起こす」という考えに強く影響を受けた。そして航海中に観察した植物や動物の多種多様な変化の事実に驚き、神がこの多様性や変化を独立に創造したとは考えにくく、祖父の言うようにある大元の1種から長大な時間を掛け変化してきたと見るのが正しいように思えて来た。しかし変化を導く原因やそれを維持進化させる理由が充分に理解できなかった。この時代にまだメンデル(Gregor Johann Mendel、墺、1822~1884年)の遺伝の法則は見つかっていなかったのである。27歳で本国に帰り、航海記を出版しながら、収集した資料やデータを基に「進化」に関する考察を始める。ここでマルサス(Thomas Robert Malthus、英、1766~1834年)の「人口論」に影響を受けた。人口増加と食料不足の関係を議論したこの本から、食料不足に適応できた集団のみが生き残るという考えにヒントを得て、自然淘汰における適者生存のアイデア「自然選択説」を発案し(1838年頃)、変異をきっかけに環境に適合した多様な種が発生することを、自ら集めたデータを基に検証していったのである。

 ダーウィンはしかし公表には慎重であった、自分のアイデアを親しいヘンズローやライエルには話したものの、発表はしなかった。発表に対する反発が大きすぎると考えたのだ。そこで進化の考えを個人的なエッセイにまとめ、「私がもし死んだら、妻が開封すること」と遺言する。そう、この頃ダーウィンは病気に悩まされ、体調を著しく崩していたのである。(病名は不明、精神失調とも航海で得た病とも言われるが、一生彼を苦しめた)。仲間内で議論をしながら20年ほどたった頃「事件」が起こる。1858年ダーウィンのもとに、ボルネオで博物学の研究を行っていたアルフレッド・ウォレス(Alfred Russel Wallace、英、1823~1913年)から「自然選択による進化説」の論文が送られて来たのである。その考えはダーウィンのものとほぼ同じでありショックを受け、仲間に相談し、ウォレスとの共著論文として「進化論」をようやく発表した(1858年)。さらに翌年一般向けに「種の起源」を出版するのである。

 種の起源はすぐ売り切れベストセラーとなった。実は当時生物進化についての本がいろいろ出版されていて「はやりもの」の一つと見られたことがある。しかしダーウィンの本は単なる空想ではなく多くのデータと資料を基にした科学書であった。しかも分かりやすく書かれている。そして、予想された事だが、多くの反論・批判が現れた。オーウェン(Sir Richard Owen、英、1804~1892年)は本を攻撃し、恩師セジウィッグ(Adam Sedgwick、英、1785~1873年)までが道徳への破壊だと批判した。さらに議論仲間だったヘンズローもこれを退け、ライエルすら理論としてはすばらしいが、道徳的・倫理的に受け入れられないとした。有名なファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre、仏、1823~1915年)も反論し、昆虫の生態からこれを批判する。その一方で、強烈な支持者も現れた、その筆頭はトマス・ハクスリー(Thomas Henry Huxley、英、1825~1895年)であり彼は徹底的にダーウィンを擁護、反対論者を論破した。意外な事に自由主義聖職者からも賛同を得て、教会内部の紛争にまで至った。しかしダーウィンはその後も長い時間を掛け、進化の理論を発展させながら出版をしつづけ、1872年でほぼ全巻を完成させたのである。

宿題42:ダーウィンは1839年に義兄の妹エマと結婚をしたのだが、結婚すべきかどうか?を研究ノートにメモした。その利点として「永遠の伴侶、年をとってからの友人」と書き、「いずれにせよ○○よりまし。」と続けた。いったい何よりましと考え、結婚にふみきったのか。

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