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* 熱・化学10:熱伝導の原理/フーリエ級数(1822年:フーリエ)

Q33: 金属は熱を伝えやすく、布や木片などは熱を伝えにくい。経験的に電気を通すモノのほうが熱を伝えやすそうだが、それは本当だろうか?

 「熱が伝わる」、この一見あたり前のような現象を「なぜだろう?」と考えることから、とんでもない数学が生まれ、それまでの数学の世界感をひっくり返してしまった。そんな凄いことをやったのが、仕立て屋に第9子として生まれ、8歳から孤児として育ち、正規に数学を学ばなかったフーリエ(Jean Baptiste Joseph Fourier、仏、1768~1830年)である。フーリエの人生は全くもって、激動の1生であった。それはフランクリン(電気・磁気1話)に勝るとも劣らない。フーリエは、8歳で両親を失い地域の世話役だった司教にあずけられ、教会の経営する軍の予備学校(そんなものがあった?)に入る。ここで数学と出会い、ロウソク明かりのもと自学自習をする(フランスの二宮金次郎!)。成績は優秀だったが、家柄のため正規の陸軍学校に進学できず、周りの勧めで修道院に入り、ここでも数学を独学研究した。21歳で修道院を終え「定方程式の解法」という論文を発表。しかし時代はフランス革命(1789)に突入する。ここで革命政府に強く共感したフーリエは、故郷で革命組織を指導し政府から逮捕、投獄される。恐怖政治が起こるが幸い開放され、26歳で師範学校に入学。その才能を認められ27歳でエコール・ポリテクニーク(理工大学)の教師になり数学を教えることになった。ここでラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange、仏、 1736~1813年)など天才数学者と交友を持つ事ができ、「代数方程式の実数解」に関する研究を行った。こうしてフーリエの研究のベースになる「方程式論」が培われていったのだ。

 ところで、フランス革命のリーダ、ナポレオン(Napoléon Bonaparte、仏、1769~1821年)は自らも数学を楽しみ、非常に科学技術を奨励した人であった。優れた科学者を積極的に登用、フーリエもその才能をナポレオンに高く評価され、30歳でナポレオン軍のエジプト遠征に随行する。カイロの学士院の要職につき行政を行いながら、数学の研究やそこでめぐり合ったロゼッタ石の考古学研究を行った。フランスに帰国後、ナポレオンからその行政手腕を高く評価された彼は、グルノーブルで県知事に就任(34~47歳までの13年間)。多忙な行政を行いながら、数学研究を続けていった。この間に「熱伝導の理論」「フーリエ級数の提案」などを発表し、1808年にはナポレオンから男爵の位を、1812年にはパリ学士院から熱理論に対しグランプリ(大賞)を得ている。一方ロゼッタ象形文字解読にも意欲を示したがこちらは失敗、そこで当時知り合った若い友人シャンポリオン(当時12歳)(Jean-François Champollion、仏、1790~1832年)にその解読の魅力を吹き込む。乗せられたシャンポリオンはその後20年をかけてこれを解読し、古代エジプト研究史に名を刻むことになる。

 フーリエの熱伝導理論は「熱」の物理的側面(熱のモデル)にはあまり踏み込まず、現象を数学的モデルで微分方程式に表現し、得意の方程式論に持ち込み分析したものである。ここで彼は「あらゆる関数は三角関数の和(級数)で表される」という「フーリエの定理」を発見し、多くの数学者を驚かせた。ただ、論理の厳密性に欠けると言う批判も受けた。おそらく直感的な発想で数学的厳密性がなかった為だろう。しかしフーリエの定理は正しかった。これによって関数の世界が拡張され、(私たちの)考えていた空間が無限次元の基本ベクトルで構成され、それらへの射影によってスペクトル分析がなされる、という画期的な世界観を切り開いたのである。フーリエの定理は、当代の3大数学者、ラプラス(Pierre-Simon Laplace、仏、1749~1827年)、ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange、仏、1736~1813年)、ルジャンドル(Adrien-Marie Legendre、仏、1752~1833年)にもその「仮説」のあいまいさを批判されたが、有能な弟子ディリクレ(Johann Peter Gustav Lejeune Dirichlet、独、1805~1859年)によって数学的に厳密に証明された。

 本職の県知事の仕事をこなしながら数学者として多忙な日々を送る中、時代に暗雲が立ち込める。1814年、46歳の時、支持していたナポレオンが失脚しエルバ島に流された。フーリエは急遽寝返り、国王ルイ18世に忠誠を誓い身の保全を図る。ところが、翌年ナポレオンがエルバ島を脱出し復活。これに驚き、再度寝返りナポレオンに許しを得たのだが、100日で再びナポレオンが失脚。ルイ18世の逆鱗にふれたフーリエは全ての職を取り上げられ無職になり、財産を無くし路頭に迷う。これを見かねた友人の計らいで統計局の職を得て、これで生計を立てながら仕事上の要請より生命保険の数学(確率論)を展開する事になる。まさに転んでもただでは起きない人であった。

 49歳の時フランス学士院から会員への推薦を得るが、やはりルイ18世の反対で没に。しかし学士院は再三の推薦を出し国王の反対を押し切ってフーリエを会員に任命。さらに終身幹事にまで昇格させたのである。又、ロンドン王立協会からも外国人会員として招聘された。54歳で「熱の解析的理論」(1822年)を出版し、それまでの熱伝導とフーリエ級数の理論をまとめあげる。この著書の内容に感動したオーム(Georg Simon Ohm、独、1789~1854年)が、フーリエの熱伝導の考え方をそのまま電気伝導に適用し「オームの法則」(1827年)を導き出したことは有名である(電気・磁気6話参照)。晩年は、自ら構築した方程式論を著書にまとめ、デリクレなど有能な若手数学者を育成するが、1830年、エジプト時代に得た病が悪化し63歳で没した。数学、物理学、考古学、行政、教育に多彩な才能を生かし、激動の時代を生き抜いたフーリエであった。

宿題33:1822年当時、熱の正体はまだ分かっておらず、カロリック説と運動説がその信憑性をかけて争っていた。なぜフーリエは、その本性を知らずして熱伝導に関して正しい分析ができたのだろう?

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