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* 電気・磁気1:雷が電気である証明、避雷針(1752年:フランクリン)

Q21: 1733年フランスのデュ・フェイは電気にはプラスとマイナスの2種類があり同種のものは反発し、異種のものは引き合うと考えた。フランクリンは1750年頃、これは間違っていると考え新しいアイディアを出す。さてデュ・フェイの間違っていた点は何だったか?

 電気の発見は古い。紀元前600年ごろすでにギリシャのタレス(Thalēs、ギリシア、紀元前624~紀元前546年頃)は琥珀と毛皮をこすり合わせるとモノをひきつける性質が生じることを記述している。しかしこの現象を詳しく調べ、琥珀を意味する「エレクトロン」という言葉を当てたのは、1600年のギルバート(William Gilbert、英、1544~1603年)であり、電気の解明はここからようやく始まった。ギルバートは電気を検知する「検電器」を発明し、様々な摩擦電気の実験を行うことで、摩擦によって電気が生じるものと生じないものを区別した。さらに時代が過ぎ1745年にドイツのクライスト(Ewald Georg von Kleist、独、1700~1748年)やオランダのミュッセンブルク(Pieter van Musschenbroek、和蘭、1692~1761年)らによって静電気を溜める「ライデンびん」(和蘭のライデン地名に由来する)と呼ばれる蓄電器(コンデンサー)が発明される。これはガラス瓶の内側壁と外側壁に銀箔を貼ったもので、容量は小さいものの静電気のように高電圧の場合、かなりの電荷を溜めることができた。これにより電気を「捕獲・貯蔵」することができるようになり、これを電気源として放電などの実験を行うことが可能になったのである。(平賀源内は、1776年にこのライデンびんを用いたエレキテルを作って(修繕か?)いる!鎖国時代にも関わらず、発明されて30年後の素早さだった。)

 デュ・フェイ(Charles François de Cisternay du Fay、仏、1698~1739年)は摩擦実験とその後の引き合う現象や反発する現象を見て、ガラスに生じる電気と樹脂に生じる電気は異種の電気であることを見出す。そしてこれらを、それぞれ「ガラス電気」「樹脂電気」と呼ぶことにした(1733年)。この「発見」は鋭いものであり、現在のプラス電気とマイナス電気に対応している。ところが、この考えに異議を唱えたのが、フランクリン(Benjamin Franklin、米、1706~1790年)だった。フランクリンは政治家でありながら科学に強い関心を持ちライデンびんによる実験を多忙な政務の傍らに始め、ガラス電気と樹脂電気は両者をくっつけると中和してなくなることに気づいた。これにより電気が2種類あるのではなく、物質に存在している1種類の電気流体が、摩擦により樹脂から逃げガラスに移ることによりガラスはプラスに、樹脂はマイナスに偏り、さらに両者を接触すると電気流体が再度戻り中和することで、その電気的性質をなくすと考えた(1流体説1750年)。又、放電現象はプラスの側からマイナスの側に向かって起こるように見えることから、ガラス側をプラスと呼んだ。

 フランクリンの考えは現在の電気の素である「電子」の考えを先取りしたものである。電子が発見されたのが1889年(トムソン)であるから、実に140年も前にこの考えに至ったのである。単純なライデンびんの実験で、しかも政治家という激務の合間に趣味で行った実験によることを考えると、なみなみならぬ強い好奇心とセンス(感性)の良さを感じる。ところでフランクリンの受けた学校教育は、8歳~10歳の2年間だけで、他は働きながらの独学であった。10歳の時に奉公した兄の印刷屋で仕事のやり方と印刷物から様々な知識を得る。さらに15歳の時にその兄が始めた新聞社で記事を書き始め、これが評判になり文章書きに夢中になった。17歳でその兄と決別し一人故郷ボストンを離れ、東海岸、イギリス、フランスと職を求めながら各国を旅し、多くの著名人と出会い影響を受ける。20歳でフィラデルフィアに戻り新聞社を起こし、秘密結社フリーメイソン(ワシントンやモーツアルトなど著名人が後からメンバーに入っている)に入る。さらに図書館を作り、世界中から新たな情報収集を行い大衆に広めた。又、同好の士を集い勉強会のようなものも行っていたようだ。これらの活動の中から、政治や自然科学への強烈な関心が芽生えたのである。

 自ら学び、そして人と出会い、さらに学び、仲間を作る。そんなことを繰り返したフランクリンは40歳になったころ、ボストンで見た火花放電の実験がもとで当時最先端の「電気現象」に強烈な好奇心を抱く。そしてイギリスから電気の実験道具(ライデンビンのキット)をとりよせ、自ら静電気の実験を始めた。この実験道具で様々な工夫を凝らすことができるようになったフランクリンは、電気は2種類あるが、その素は1つの流体であること、稲妻は電気現象であるという仮説を提唱する(1750年ごろ、44歳)。この説はイギリスで発表されるが、アメリカからの報告ということで軽く扱われた(当時、欧州はアメリカを全く軽視していた)。しかしこの報告に注目したのがフランスのダリバールら、彼らはフランクリンの示した雷が電気である証明実験を先に実施してしまう(1752年5月)。これによって雷の電気説が実証された。フランクリンはこれを聞き追試を同年10月に行い、再確認に成功。これが有名なフランクリンの凧揚げ実験である。つまりフランクリンは実験方法を提唱したものの、実際はダリバールに先を越されてしまったのである。しかし提唱者の栄誉で、この実験はフランクリンの実験として歴史に残ることになった。(トランジスタ技術、2014年7月号に掲載)

宿題21: フランクリンは雷が電気であることを証明したと同時に、雷に関するあるものを発明している。なかなか普及しなかったこの発明とはいったい何か?

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